東京都写真美術館

一日に三つの展覧会を見るかどうか、体力的に迷うところなんだけれど、時間的にちょうどよかったので、恵比寿の写真美術館で
「私を見て! ヌードのポートレイト」

世界報道写真展2010」を。
東京都写真美術館のサイトにこうある。

写真が発明された頃、かなり早い時期からダゲレオタイプによるヌード写真が撮影されていました。
一方、絵画の世界において、ヌードの絵画作品のほとんどは、旧約聖書のイヴやギリシャ神話のアフロディテ(ヴィーナス)のように物語の中の人物でした。
1865年にフランスのサロンに出品した、マネの現実の娼婦を描いたといわれる作品「オランピア」が、当時の世論に非難されたように、19世紀末まで裸の実在の人物を描くことはタブーとされていました。
ヌード写真も、公に発表され、人物が特定できるような写真が撮られるようになるのは、もう少し時代を経てからになります。

展示されているヌード写真を見ながら、私は、今朝のバロック絵画の女たち(それから少年たちも)を思い出さずにおられなかった。
写真の世界でも

絵画作品を規範としていたピクトリアリズムのヌード写真は、ソフト・フォーカスなどの技術を駆使し、モデルのポーズなども有名な絵画にまねて、理想化された表現を追い求めていきます。
それゆえに個人としての人物として描写するよりも、曖昧に象徴的な存在となされている場合もあります。

そういう写真はやはり退屈だし、あっという間に淘汰されていってしまったと思う。
そのことこそ、絵画の世界でマネが乗り越えていったことなのに、現実をリアルに写すしかないはずの写真が、また古典の権威の後ろに自分の欲望を隠そうとするのはグロテスクだ。
写真が発明されたかなり初期のころからヌードが撮影されていたのなら、たぶん絵を描くこともきっと、その最初から人間の深い欲望と関わってきたはずだと思う。
ヌードでなくても、男が女の写真を撮ることじたいが、広い意味で性行為なのだと思う。
そのことは、ユディトや聖アガタを描いたバロックの画家たちと直接につながっているはずだ。

ショップに荒木経惟の『センチメンタルな旅 春の旅』があったのでぱらぱらとめくった。
後ろのほうの写真が目に飛び込んできて、ハッとして本を閉じたが、イメージは一瞬早く記憶の中に入り込んできた。
『愛しのチロ』は、発売当時、このような写真集としては、異例のヒットになったと記憶している。
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展覧会には‘冬の旅’のほうの写真もあった。
どこまでも私的で不敵な陽子夫人のヌード。
この写真を、ソフトフォーカスで、古典絵画のニンフのように撮るなんてことが想像できるだろうか。
ヌード写真が目を惹くのは、それが欲望の対象になるからだが、その欲望は、単に性欲ではなく、もっと広い意味の、あるいは、もっと強い欲望なのではないか。
自己の投影というだけではすまされない、もっと自己の存在を賭けた勝負なのではないかと思う。
あるイメージに自己を託すというと、いかにも確固とした自己があるかのように見えてしまうが、逆に、もしイメージがなければ、わたしたちはどうやって自己を認識するのか。
そう考えると、自己とは何かという問いは、何が自己のイメージかという問いに変えてみることもできる。そして、多くの場合、人は自分の欲望を刺激するイメージに自己を見るのだと思う。
こう書きながら、連想が赴くのは、細江英公三島由紀夫を撮った薔薇刑だったりする。
しかし、私が言いたいのはそういうことではなく、陽子夫人やチロの写真に自己がある。むしろなにげない日常のスナップの中に自己がある。少なくとも、その反照に、わたしたちは自己をさがすことができるのではないかと思う。
画家の絵筆の先は、世界にひっかきキズをつける自己の切っ先であるかもしれない。
世界報道写真展は今日で最終日だったらしく見ておいてよかった。
爆撃の瓦礫の下から掘り出されたパレスチナの少女の死体や、イラク戦争で脳の40%を失ったアメリカ人の写真は、現実の世界を鼻先に突きつける。
いつも世界のリアルを手放さないように、手探りで生きていかないと、あっという間にこの国の鎖国の民のたわごとに引きずられてしまう。