印象派とエコール・ド・パリ

knockeye2010-08-16

昨日、新大阪駅でタイガースのユニフォームを買うかどうか迷ったが、あいにくサイズがなかった。
お盆休みの最後は、横浜美術館の「印象派とエコール・ド・パリ」で締めくくった。

オルセー美術館展に行列を作るより、こちらに来たほうがよいのではないかと思うのだけれど、あの行列そのものに、ちょっと値打ちがあるというのも、必ずしも間違った価値観とは思っていない。
バブルの最盛期には、100km越えの渋滞もあったと思う。
(ちょっと検索してみたら、渋滞の最高記録はバブル時代の154キロだそうだから、記憶間違いではなさそう。知り合いがお盆の帰省で、中国自動車道全線半クラで走ったという話を聞いたことがある。)
活気といえば活気、から元気といえばから元気。いずれにせよ、のちのちの語り草にはなる。
オルセー美術館展に並んでいる人の記憶には、絵より、並んだことのほうが鮮明に残ると思う。絵の方は一晩寝たらきれいさっぱり忘れてしまうのではないか。おそらくほとんど見えないだろうし。
閑話休題
印象派の展覧会では、アルフレッド・シスレーにちょっと会釈をするという楽しみ方もある。
今回展示されていたのは「ロワン河畔、朝」。
手付かずの朝の明晰な光、なにかの予感に満ちている。
川の浅瀬を表現する筆触がすばらしい。
近くで見れば紫色の筆のひと刷けだけれど、離れて見ると透き通る川の浅瀬以外のなにものでもない。
でも、こういうことを‘筆触分割’とかいって、スーラやシニャックのように点描に走ってしまうと、筆触から画家の個性が失われてしまう。それはつまんないと思う。
カミーユピサロも一時期点描に走ったけれど、‘水のモネ、土のピサロ’と並び称されていた若いころの絵のほうがいいと思う。
今回の展覧会では、ポートレートやいろいろな人の顔に目が惹かれた。
「ルネ」は、アメディオモディリアーニが、キスリングの奥さん、ルネを描いた作品だが、このルネという女性はなかなかユニークな顔立ちをしている。
生まれつき容姿に恵まれた女性もステキだけれど、美ではなく意識的に知性を装っている女性は魅力的。
キスリングはルネに一目ぼれだったらしいのだが、モディリアーニの描いたこのルネの顔は、そのことのよい傍証となっている。
シャイム・スーティンの「青い服を着た子供の肖像」は、同じ断髪の女性でも、それとはまた対照的な魅力にみちている。おシャマできかんきそうな表情に思わず微笑んでしまった。
レオナール・フジタの「校庭」は、晩年、フジタがよく描いた子供たちが、校庭に集まって体操をしている絵だ。
おとなのようなこどものような顔、どこかいびつで華奢な体型、でも、ひとりひとりをよく見ると、みんな絵に従属せずにてんでばらはらに勝手に生きている。
フジタはこの子達を愛してるんだなぁという思いがストレートに伝わってくる。
凡庸な画家なら、子供の絵に自己を仮託してしまうものだが、フジタにはそんなそぶりも見えない。名画だと思う。
マルク・シャガールの「恋人たちとマーガレットの花」は、この絵の前で恋人たちが手をつないで佇んでいたとしても、ジャマしないであげましょう。