
- 作者: 河治和香
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この小説の国芳が、あまりにいきいきしているので、わたしの国芳像はすっかり上書きされてしまい、副産物としてカタキ役の国貞がなんとなく嫌いになってしまった。
それで、こないだまで静嘉堂美術館でやっていた国貞の展覧会に出かけなかった。あほである。
今回の巻では、登鯉の出生の秘密と遠山の金さんの刺青の秘密が明らかになる。
![文藝春秋 2010年 09月号 [雑誌] 文藝春秋 2010年 09月号 [雑誌]](https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/510nkoW18VL._SL160_.jpg)
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芥川賞受賞作を文芸春秋で読むと、選考委員の選評がいっしょに読めるので面白い。
村上龍は「んー」っていう感じ、石原慎太郎はあからさまに貶している。
彼ら、元・不良少年たちが、これを理解する取っ掛かりがつかめないのはむしろ当然だと思う。
‘不良’という存在は、彼らか、遅くとも島田紳助を最後に絶滅したはずで、少なくとも現在では、氣志團的パロディーとしてしか存在していない。
不良少年絶滅の原因は、彼らの生息環境がなくなったためだと思われる。
不良の存在は、権威が押し付けた良悪の価値観があってこそだった。
その重石がなくなったあと、急速にテリトリーを拡大して、今や支配的な存在となっているのが、この小説で赤染晶子がいっている‘乙女’なのだろうと思う。
思い起こしてみれば、たぶん、私たちの世代くらいが、不良少年の死滅した直後くらいだったろうか。
お笑いの世代でいえば、島田紳助とダウンタウンの間にある温度差。
私たちの世代にも不良を擬する人はいたが、そのころすでに、
「何をいまどき不良やってんだよ」
という、ちょっと寒い感じはあった。
有体にいえば、不良がモテた世代は、島田紳助までだったといえる。彼自身が、後には不良を戯画化するわけだしね。
私自身、学校という若年世代の隔離施設から遠のいて久しいので、今、現在のその世代のリアリティーを理解できないでいた。
湊かなえの『告白』を読んだとき、まるでマカロニウエスタンみたいだと思ったのだったが、そのマカロニウエスタン的な理不尽さが、今の若者たちのリアルなのだと気が付いたときは慄然とした。
権威が押し付ける良悪が消滅したかわりに、良悪の差別は、彼らの中からまったく偶発的に生まれる。そして、彼ら自身も自分の意志ではそれに抗することさえできないらしいのだ。
この部分をどうとらえるかが、結局、今回の選考委員の評価の差になっていると思う。
つまり、否定的な意見は、ナチスドイツの時代、人類が犯した最悪の罪悪ともいえるアンネ・フランクをめぐることどもと、現代日本の教育現場におけるいじめや疎外が、同列に論じられるべきなのかという問いに、否定的だということに尽きるだろう。
しかし、この小説が取り上げている問題はまさにそこなのだと私は思う。
アンネ・フランクを、祭り上げられたイコンの地位から、もう一度、生身の少女へと引き戻さなければならない、と、主人公みか子がそう自覚するプロセスこそ、この小説のもっとも重要なポイントではないかと思った。
ただ、選考委員の評価がわれた理由のひとつには、‘乙女’ということばに強い説得力がないからだと思う。
教育から権威が失われて、子供たちの間にいじめがはびこっている現状は、ある程度共通認識ともいえるので、あるいはむしろ、‘乙女’についての説明的な部分はごっそりないほうがよかったのかもしれない。
池澤夏樹の選評の一部にこういう部分があった。
現代の日本人にとってアウシュビッツは遠いだろうか?
(略)
我々に引きつけるならば、戦時中に戻って、「貴様、それでも日本人か?」と問われる場面を思い出せばいい。日本人とはこの場合にこうふるまうもの、という前提があっての詰問である。その前提を共有する者だけが日本人だという居丈高な思い込みが問う側にはある。「日本人」という言葉を使ってすごむ論客たちは今もって同じ手法をつかっている。
ことしの8月15日は、民主党政権誕生後、初の終戦記念日、閣僚は誰も靖国に参拝しなかった。
その一方で、
靖国神社:欧州極右党首ら参拝へ
http://mainichi.jp/select/world/news/20100811k0000e030046000c.html
だそうである。
これは、国家主義者がグローバル化しつつあるということなんだろう。
つまり、国家そのものは、国家主義者にとってさえ、相対的な存在でしかありえなくなったということだろう。
少し前にも書いたが、これから文化や経済の中心は、国家ではなく都市、広い意味で地方、になっていくだろう。個々人の、国民という意識は、どんどん希薄になっていくと思う。
そもそも、個人にとっての国民の意識は、いいかえれば、私が日本人であるということは、私にとっては自明のことだが、しかし、それは、多面的なわたしの意識の一面であるにすぎないのだから、当然ながら、私の他の多くの面と有機的に影響しあっている。もちろん、それについて他人にあれこれいわれる筋合いはない。