「瞳の奥の秘密」

knockeye2010-09-04

「エル・カンタンテ」や「カフェ・デ・ロス・マエストロス」以来、スペイン語の響きがここちよくなってしまっている。「si」以外なにも聞き取れないけれど。
わたしたちは、(というとき、だれのことをさすのだろうと、われながら戸惑うことがあるが、このスペイン語で日常会話する人たちが、たしかに‘わたしたち’とはちがっていることを、この映画を見て、ある畏敬の念を覚えながら感じた)この人たちに較べると、はるかに功利的な世界を生きている。
功利的といって足らなければ、物質的といってもいいし、規範なき世界といってもいい。
南米諸国の役人の腐敗は、日本にいても音に聞こえるほど。
南米の人たちにとっては、社会はつねに腐敗していて、正義は賽の河原に積む小石であって当然だと思っているかもしれない。でも、だからこそ個人と社会のコントラストが強いとはいえないだろうか。
ちかごろ、マイケル・サンデル の『これからの「正義」の話をしよう』なんていう本が話題になっているが、わたしの認識では
「正義の話なんてしたって仕方ないじゃないか」
というのが、アメリカ人の態度だったはずだった。なぜなら
「正義は、個々人のこころの問題で、そこにはお互いに踏み込まないようにしよう」
というのがアメリカ社会のはずだったからだ。
しかし、そうして各人の心の中に存在しているはずの正義だが、結局のところ、経済原理という唯一の原理のもとに統治されている、という現実を突きつけられたとき、他の正義に批判されず、個々人の幻想の中で飼いならされている正義が、しらずしらずみじめに貧弱に衰弱しきっているのではないか、と疑問が頭をもたげても不思議ではない。
「せめて‘正義の話’くらいしてもいいじゃないか」
と、だれかが思い始めても驚かない。
瞳の奥の秘密」というこのアルゼンチン映画が、ことしのアカデミー外国語作品賞を受賞したのは、よいつくりの推理劇というだけではなく、一歩、功利主義の世界の外に踏み出しさえすれば、社会全体の重さに個人が(つまり個人の愛が)、拮抗して生きている世界があるというショックだったのではないかと思う。
ところで、パブロ・サンドバルを演じたギレルモ・フランチェラがすっごくおかしかった。
いい味の役者っていろんな国にいるもんですね。