『真昼なのに昏い部屋』

真昼なのに昏い部屋

真昼なのに昏い部屋

この『真昼なのに昏い部屋』という題名は、作中でも触れられている、谷崎純一郎の『陰翳礼賛』を、すこしは意識しているのだろうと思う。
男と女がほれたはれたすることを‘恋愛’と呼び習わすようになったのは、たぶん近代以降なんだろう。‘近代’そのものがキリスト教徒の誇大妄想みたいなものだから、その価値観が崩壊したか、控えめにいっても相対化されてしまった今となっては、近代的自我のおまつりみたいな恋愛至上主義がウソっぽく見えるのは仕方がない。
近代的自我っていうのも、実は、おカタいキリスト教徒が恋愛するためのエクスキューズだったのかも。
この小説の恋の傍観者(主人公ふたりを見通せる位置にいる)ナタリーはこういってます。

ジョーンズさんがその女性にイカレていることは、ともかくもそのくらい明々白々で、友人たちのあいだでは、周知の事実とされているのでした。もっとも、ただ一人気づいていないらしいのが当の女性---澤井美祢子という名前です---で、ナタリーの考えでは、それは余程の鈍感か、気づいているのにいないふりをするような、いやな、小ずるい女のどちらかなのでした。

この美祢子さんの紹介の仕方は絶妙かもしれない。
ともかく、この主人公たちは、それぞれのしかたで‘近代的自我’なんてものには目もくれない。この恋の主人公ふたりが似ているところがあるとすればそこなのかもしれない。
以前、長嶋有の『ジャージの二人』について書いたときに、
「この小説は、『暗夜行路』や『人間失格』などの‘寝取られ男’小説の最先端だ」
みたいなことを書いたけれど、この小説にも、ちゃんと寝取られ男はでてくる。そして、よくみると、この寝取られ男、美祢子の夫のひろちゃんが、この小説の中では、もっとも近代的自我に近いひとなのかもしれない。近代的自我って、脇役に据えちゃうとこんな感じじゃないだろうか。
美祢子さんは『人形の家』のノラのように家を出たのでしょうか。近代的自我にめざめたのだろうか。
どうもそうではないような気がする。彼女自身は
「世界の外に出ちゃった」
といってますね。
世界の外に出ても、そこに近代的自我という便利なよりしろが用意されていないところが、現代のつらいところ。でも、世界の外でも、人は平気で生きていくもんみたいです。
いくつかの書評で、この小説の主役は恋愛そのものだと書かれていたけど、それはすごくわかる気がする。ジョーンズさん、美祢子さんの両方の視点から、公平に物語がすすんでいく。どこからか恋愛がやって来てそして去っていく。その感じがほんとに見事。
近代という価値観の束縛を離れた、とてもデーモニッシュな恋愛の姿をとらえている小説だと思います。