横雲のふみ、フランダースの光、鍋島

knockeye2010-09-11

村木厚子の無罪判決で、なぜあのタイミングで鈴木宗男収監の決定が出されたのかわかった。
村木厚子の冤罪を、国会議員としての鈴木宗男が見逃すはずがない。
役人側としては、村木厚子の冤罪が自分たちの首を絞めないように、鈴木宗男を国会から排除しておく必要があったわけだ。
秋になると、美術展が充実してくる。
昨日あげた美術展のうち、まず、手始めに五島美術館の「茶道具の精華」へ。五島美術館はこの秋から二年間、改装のために休館するそうだ。
このところ、川喜田半泥子の随筆を読んでいるので、茶碗が面白くなってきているところ。

随筆 泥仏堂日録 (講談社文芸文庫)

随筆 泥仏堂日録 (講談社文芸文庫)

峯紅葉と銘された鼠志野の茶碗は
「姿はたくましいが、成形が巧みなため、手に持つと意外に軽い」
と書かれていた。
茶道具は、やはり美術館で展示するだけでなく、人が手にして使うべきものなのだろう。
夕暮と銘された長次郎の赤楽茶碗は、しみついた茶渋がなければ、夕暮と名付けられた温かみが幾分か減ずるのではないかと思う。
床の間にかける掛け軸に、さまざまな茶人の手紙を表装したものが、多く展示されていた。
そのなかに「千利休消息 横雲の文」というのがあった。

ある寺の住職に
「あなたのところに預けてあるつぼを秀吉が取りに来ると思うが、絶対に渡すな」
と依頼する手紙。
「横雲のかすみわたれるむらさきのふみとどろかす天橋立
という歌が添えられている。
秀吉の命をうけて自刃するわずか3週間前の日付。
今週の週刊SPA!に、普天間問題についての佐藤優のインタビューがある。
それによれば、普天間問題のポイントは、官僚の決定を政治家にひっくり返させないということにあり、
「つまり、『国家の主人は誰か』という戦いだった」
佐藤優は、また、文芸春秋に「古典でしか世界は読めない」という連載を持っている。今回取り上げているのはヘーゲルの『歴史哲学講義』。

 筆者は鈴木宗男事件に連座し、東京拘置所の独房で暮らしているときに『歴史哲学講義』を再読した。
学生時代に初めてこの本を読んだときには、特に感銘を受けなかった
「理念は、存在税や変化税を支払うのに自分の財布から支払うのではなく、個人の情熱をもって支払いにあてる」
という部分が胸に迫ってきた。

「理念は、存在税や変化税を支払うのに、自分の財布から支払うのではなく、個人の情熱をもって支払いにあてる」
鈴木宗男事件について、これほどの深い洞察はまずお目にかからないだろう。
同じ雑誌の塩野七生の連載は
「なぜ人々は、マスコミから離れるのか」
とサブタイトルをつけてこう書いている。

・・・なぜ言論の世界で生きている私なのに、新聞や雑誌を読まなくなりテレビも観なくなったのか。
 テーマの取り上げ方が、卑しく下品に変わったからである。

いつもいうように、私が週刊文春を買うのは、小林信彦のエッセーを読むためだが、ちなみに、今週の巻頭記事は
「スクープ入手 テレビ局が封印した 小沢一郎青木愛『京都の密会映像』」
だった。
千利休の横雲の文を掛け軸に表装した人はどのような思いであったろうかとしのばれる。
五島美術館の最寄り駅は、上野毛という二子玉川から大井町線でひとつめの駅。
お茶碗つながりで、根津美術館サントリー美術館にいきたかったのだけれど、路線図の関係でとりあえず渋谷へ。
で、そのままの流れでBunkamuraザ・ミュージアムの「フランダースの光」へ。
この展覧会は、さほど期待していなかったのだけれど、思ったよりずっとよかった。
シント・マルテンス・ラーテムというベルギーの小さな村に出来上がった芸術家のコロニーで活躍した画家たちの展覧会だったが、第一世代といわれる、アルベイン・ヴァン・デン・アベールの「春の緑」もすがすがしく好感が持てるし、ヴァレリウス・ド・サードレールの作品は、どれも確かな独自性を獲得していると思う。
この画家は、この村に移住したあと、それ以前に描いた印象派風の自分の絵を買い戻してすべて破棄したそうだ。
「静かなレイエ川の淀み」を観ると、その転向の確信みたいなものを確かに受け取ることができる。印象派のようにすべてを光の粒に分解してしまうと、この絵にあるような、ものの手触りが失われてしまうということは、たしかにあると思う。
第二世代の中心的存在、エミール・クラウスの絵は、印象派的ではあるけれど、今回のポスターにも使われている
「刈草干し」
をはじめ、多くの人の姿が逆光で表現されていることが、この画家が単なる印象派ではないことを語っている。
点描を用いていないころの「ピクニック風景」のほうが今から見れば、むしろ新しく見えるのではないか。
ただ、エミール・クラウスと、他の点描を多用する画家を較べてみていると、結局、いい画家はいい絵を描くという至極まっとうな感想が浮かんでくる。
そもそも印象派=点描という発想自体が多くの画家の躓きの石になっていると思える。猪熊弦一郎の言葉に則していえば、そういう発想に飛びつく画家は、「絵を描くのに必要な勇気」を喪失していると私には思える。
アルベール・セルヴァースの「聖なる夕べ」もよかった。
彫刻では、ジョルジュ・ミンヌの「ひざまずく少年」が、強い性の抑圧を感じさせてよかった。
「死んだ雌鹿を嘆く男」
なんて、ああいうあぶない感じのものを確かな手わざで仕上げる作家が私の好みに合う。
絵葉書に彫刻のを探したがなかったので、同じ作家のモノクロームの挿絵のを買った。眠っている(或いは死んでいる)羊の群れの中心で、狼か牧羊犬が遠吠えをしている絵である。
夏ばて気味で、動き出しが遅れてしまったのだが、六本木ミッドタウンのサントリー美術館は、午後8:00までやってくれているので、こういうときに余裕を持てる。
「誇り高きデザイン 鍋島」
という展覧会。
千利休古田織部の愛した茶碗に較べると、鍋島は幕府への献上品を焼くための藩窯なので、この展覧会のタイトルにもあるように、これらはむしろ工業デザインとして味わうべきものだろう。
同じ「鷺文」の染付けであっても、有田のものと鍋島藩窯のものとははっきりちがう。絵としては、有田のほうが個性的で生き生きしているが、鍋島藩窯の方が緻密で贅をこらしている。
優劣をいうべきことではない。ただ、いずれにせよ、作る側と受け取る側の双方が、センスを磨かなければ成立しない。