「悪人」

knockeye2010-10-03

映画「悪人」。
この原作を読んだとき、想像したよりはるかにストレートなラブロマンスであることに驚かされた一方で、‘悪’というテーマはどこにいったんだろうと、はぐらかされた思いがしたのだった。
映画の評判はよかったが、マスコミの前評判とか、どこか外国の賞とかが、あまりあてにならないことは経験で知っているので、見にいくかどうか迷ったのだけれど、深津絵里妻夫木聡のキャストがよかったのと、なにより、シナリオに原作者の吉田修一自身が関わっていることに興味を覚えて観にいった。
たぶん、吉田修一は、新聞連載当時に詰め切れなかったところを、修正してくるのだろうと思ったからだ。
原作で、私がいちばん気にかかっていたのは、あのラストシーンだったが、映画と小説では大きく変更されている。
深津絵里が演じている馬込光代の、つぶやく科白はまったくそのままなのだけれど、その他はすべて変更されている。
それで、小説ではちょっと(?)だったあの科白の意味が、この映画ではっきりとわかった。あの科白が深津絵里の口から出たとき、背中に走るものがあった。
小説を読んだときに、あの科白の重みに気がつかなかったのは情けないけど、ただ、小説では、あの長い話を最後に支える一言としては、すこし構造的に弱かったともいえるのではないかとも思う。
それがこの映画では、いろんな部分がきれいに彫琢されて、言葉の発する力が強くなっている。
吉田修一がシナリオに参加したのは、ラストをああいう風に変更したいためではないかと思ってしまった。
李相日監督については、「フラガール」はいい映画だと私は思ったけど、ただ、松雪泰子の物語が宙ぶらりんになったように感じていて、すこし‘甘かったかな’とも思っていたのだけれど、今回は、特に柄本明の科白を、主人公たちや、樹木希林のシーンとかぶせる演出は、堂々としたものだったと思う。
ああいうことは、小説にはできないテクニックだけに、下手に使えば押し付けがましくなるところだが、今回は、妻夫木聡深津絵里樹木希林、そして柄本明の、別々に流れてきた時間軸を、あそこで見事にまとめて、ラストの深津絵里の科白にまで一気に流し込んだ。
小説を読んだときはわからなかった「悪人」というタイトルの意味が、映画を見て私にははじめて腑に落ちた。
すこし不明を恥じたくなる。