たとえば、ヒトラーを‘あわれな歴史の被害者’と弁護することも、イエス・キリストを‘二千年に及ぶ宗教戦争の責任者’と非難することも、どちらもとても簡単だ。「悪人は誰か」の議論は、永遠に終わらない。
なぜなら、悪は、自覚的な概念としてしか機能しない。
つまり、「悪人は誰か」という問いの刃を、世界に向けて振り下ろすとき、実は、それは、発した者自身を斬りつけている。
罪は、それを負わないものには永遠に存在しない。罪を負うものだけが悪人になる。
「・・・世間の人が言うように、あの人は悪人だったんですね」
という光代の科白は、ただひとり、‘悪人’が罪を負った瞬間を共有したものの独白なのだった。
‘世間の人’は祐一を‘悪人’と言うが、自分たちが何を言っているのかを、実は、知らない。それを知っているのは光代だけなのだ。
世間の人の言う‘悪人’と光代の言う‘悪人’は、まるで言葉の意味がちがっている。
だから、光代の問いは、誰に答えられる当てもなく、あの灯台の落日に帰っていく。エンドロールに続く、あの灯台の落日に。