『終着駅 トルストイ最後の旅』

終着駅―トルストイ最後の旅 (新潮文庫)

終着駅―トルストイ最後の旅 (新潮文庫)

ジェイ・パリーニの著者あとがきは、冒頭いきなり、この小説が「フィクションである」という宣言から始まる。
「文学研究の装飾や影響をいくらかは残しているけれども。」と。

五年ほど前、ナポリで古本屋を漁っていたとき、レフ・トルストイの晩年を記したワレンチン・ブルガーコフの日記に偶然ぶつかった。
まもなく、トルストイの身近なサークルの人物がそれぞれ同様の日記をつけており、1910年までには、かなりの数にのぼっていたことを知った。

(略)

それらをつづけて読むのは、万華鏡をのぞくようなものであった。私はまもなく、つぎつぎと目に映る、変化してやまない対称的な形にすっかり魅せられてしまった。

篠田綾子の訳者あとがきには

「二十世紀最高の伝記のひとつ」ともいわれる「トルストイ伝」のなかで、著者A・N・ウィルソンはこう書いている。
トルストイ周辺の人物たちがみな記録を残し、またそのほとんどが回想記を書いているので、伝記作者たるもの、洗いざらい語りたいという誘惑にうちかつのは難しい。
そうするとしかし、多すぎる<資料>がいかに真実を歪めるかという見本になる」と。

パリーニが、「フィクションである」と断るのは、伝記のように、一つの真実を提示するではなく、歪んだ真実を組み合わせて、パリーニが感じたという万華鏡の魅力を伝えることに意図があるからだろう。
トルストイが捲き起こしている(としかいいようがないと私には思えるのだけれど)この大騒動の顛末をみると、たしかに、トルストイは魅力的な人物だったろうと思う。
後のソビエト社会主義を可能にした背景には、カール・マルクスの思想はほとんど関係なかったというが、少なくとも大衆はむしろ、革命の向こうに、トルストイを見ていたのではないかと思えた。
高弟チェルトコフやソーニャ夫人について、あれこれ書きたくなるが、著者自ら「フィクション」と断った罠に、むざむざ引っかかるのも忌々しいし。