国家主義者が、反・知性主義になるのはなぜか

 日中首相会談ドタキャンのみならず、最近の中国を見ていて、再認識させられるのは、民主主義の価値が、21世紀の今になっても、少しも古びていないという驚きだ。
 普天間問題で、一時は疎遠になりかけていた日米関係だが、前原誠司とヒラリー・クリントンは、この一ヶ月で二度も会い、お互いの同盟の強化を確認している。中国の傍若無人ぶりを目の当たりにして、ハッとお互いの顔を見つめなおしたという感じ。
 今の中国を見ていて、子供じみた戦争に負けた後の65年、紆余曲折があったとはいえ、私たちは民主主義を表明してきたし、結局、民主主義の側に立ってきたということこそ、誇りに思うべきではないかと思う。
 加藤祐子のこのコラムをブックマークしたら、なんと、はてなだけで、300人を超える人がブックマークしていて驚いた。
 日本からだと、アメリカの‘茶会運動’について実感がなかったが、このコラムを読んで、これはまるで、少し前の日本の○○のようではないかと、おかしくも感じたし、少し薄ら寒くもあった。
 バラク・オバマが、ネットのムーブメントで大統領になったときは、日米のネット世論のあり方の違いが話題にされたものだったが。
 このブログでも、前回のエントリーで「国家主義者は、どの国でもよく似ている」
と書いたばかりだったが、件のコラムを読んで気がついたことは、彼らはけしてバカなのではなく、反・知性的なのだ。そして、そのことは、バカよりもさらに悪いと私は思う。
 300人を超える人が、すでにブックマークしているコラムをあえて取り上げてみたくなったのは、今読んでいる本、田中優子の『江戸の想像力』に

 近世とはあらゆる領域で、宗教体系に依存せずに人間の普遍を考える---人間とは、どんな生き物か---時代への突入でもあった。
しかし日本の場合、それが維新後も含めて、「日本人とは何か」という問いに往々にしてすり変わってしまった。
国学者や読本作者たちが、そのすれすれの場で仕事をしていたのは否めない。
近世の人々にとって、生命とは何か、それを押しこめてしまったかもしれない文化とは何か、と問うことは、
「文化にさらされる以前の原日本人とは何か」
「日本人を変えてしまった中国文化とは何か」
を問うに等しかった。
つまり、人間の普遍的問題が日本と中国大陸との関係に置きかえられ、その結果、普遍への志向はたびたびナショナリズムに縮小されてしまったのだった。

という示唆的な文章に出会ったからだ。
 また、この本では、ニーチェの『悲劇の誕生』を引いている。

文明国フランスを見ると、国民と文化が一体になっていて、われわれは愕然とする。
(中略)
国民と文化がひとつであるということこそ、長いあいだフランスの大きな長所であったし、フランスがすぐれて優勢な原因でもあった。
ところでそこから目を転じて、われわれを見るとき、われわれの実に怪しげな文化がこれまでのところ、幸いにも、わが民族性の高貴な核心とはなんの共通点もないことを、祝福せざるをえないのだ。
われわれは、この落ちつきもなくぴくぴく動いている文化生活や教養のけいれんの下に、ひとつの内面的に健全な、太古いらいの力がかくされていることを認め、そこに向かって、われわれのすべての希望は、あこがれに満ちて身を伸ばすのだ。

 ニーチェが思いをめぐらせたのは、ディオニソス的なものとアポロ的なものの相克という、人間の普遍的な問題だったが、国家主義者の目には、自国の文化の(というより文化以前への回帰の)優位を語っているとしか映らない。
 上の文章だけを見れば、ドイツとフランスについてだけでなく、アメリカとイギリス、明治の日本と西欧、文化大革命時代の中国と西欧、などについて、国家主義者が語りそうなことに聞こえる。
 かくして、国家主義者は、反・知性主義になる(勉強するより、バカのほうが楽だという、実践上の理由ももちろんあるだろうが)。
 そして、つい先日に書いたばかりだけど、彼らのいう自国の文化は、母胎回帰願望にすぎないと私は思っている。
 中国の反日デモを見ていて思い浮かぶのは、魯迅の「阿Q正伝」だ。
 日本車のボンネットに乗って喜んでいる人など特に、「阿Qだ」と思う。
 魯迅の小説の多くは、竹内好の名訳でよく読んだものだったが、当時は気がつかなかったけれど、今になって、魯迅が中国人の気質をいかに正確に描写していたか、あらためて感心する。