円山応挙 空間の創造 後期

 三井記念美術館で開かれている、円山応挙展の展示替え。
 <雪梅図>は、また草堂寺の奥深くに帰り、かわりに金剛寺から、<波濤図>が来ている。
 大画面にうねりさかまく波の曲線がすばらしい。
 両端に三羽の鶴を配するが、襖十二面からなる画面の、中央ほとんどを占領しているのは流れくだる波。
 線に躍動感があるので、まるでキネティックアートみたいに、画面が動くかのようだ。波は、鑑賞者の足元から流れゆき、画面右手から画面中央へと膨れ上がり、左手の岩の向こうに流れ落ちて見えるがどうだろう。
 私は内心、応挙より蘆雪の方が、線は上だと思っていたが、<波濤図>のこのダイナミズムはすごい。
 それに、全体を構想する力においては、応挙の右に出る人は、なかなかいそうにない。
 <竹雀図屏風>が、静岡県立美術館に帰り、円光寺から<雨竹風竹図屏風>。
 右隻の竹が、雨に濡れて重たそうなのはすぐにわかったけれど、左隻の風には意表を突かれた。吹き荒れる風ではなく、むしろ、音ひとつない竹林の中、ひとそよぎの風に、手前の竹だけが少し揺らいでいる。
 雨も風も、むしろ静寂を引き立たせている。
 応挙の感覚は研ぎ澄まされている。
 <蘭亭曲水図>は、書に詳しい人なら誰もが看過できないだろう、あの蘭亭曲水の故事を描いた襖と壁貼付。
 心覚えのために、臆面もなく、図録からメモしておくと、東晋の永和九年(353)三月三日、王義之が蘭亭という山荘に、当時の名士四十一人を招き、曲水の宴を主催した。
 このとき成った詩集に、王義之が冠した序が「蘭亭序」で、その真蹟は、唐の太宗の遺命により、自らの昭陵に随葬されたといわれる。
 構成は、幅の狭い襖が四面、広い襖が四面、そして、もっとも広い壁貼付が一面で、高さは統一されている。どのような建物に、この障壁画が書かれていたかは不明だそうだが、それぞれの四面、四面、一面でコの字に部屋を取り囲んでいただろうと解説されている。
 最初の四面と次の四面の角は、流れが大きく蛇行して画面の外へ消え、最後の一面の角には高い岩山がせり出している。
 コの字の空間を想像してみたとき、実際の建物が失われているためにかえって、蘭亭の仮想空間に入り込んだような気がした。
 この<蘭亭曲水図>にしても、十六面からなる大乗寺の<松に孔雀図>も、草堂寺の<雪梅図>や、金剛寺の<波濤図>も、ミケランジェロシスティーナ礼拝堂に引けをとるだろうか。
 日本文化というとき、私の心に浮かぶのはこういうことで、渋谷の駅前で、迷彩服を着た連中ががなりたてていることとはまったく違う。
 もちろん、ほかの人の日本文化が、私のと違っているからといって、それに異議を唱えるつもりは毛頭ない。何度も書いているように、人にとっての故国が、人それぞれに違うのは当たり前。他人が自分と違うからといって癇癪を起こすのは子供だけだ。