「乱暴と待機」

knockeye2010-11-28

 テアトル新宿で「乱暴と待機」。
 この原作の小説はすごくおもしろかった。だからといって、映画もおもしろいとは限らないのが世の常なので、見にいくか迷ったのだけれど、小池栄子があずさ役なので、これはたぶん面白いんじゃないかっていう、期待は裏切られなかった。
 山根さん役の浅野忠信もよかった。浅野忠信は、こないだの太宰治もよかったし、このつぎの「酔いがさめたら、うちに帰ろう」も、見にいきたい。永作博美も、たぶんいいだろうし。「クローンは故郷をめざす」がよかったから。
 で、「乱暴と待機」だけれど、そもそもこの「○○と○○」というタイトルが、ちょっとにやっとさせる。
 「罪と罰」、「戦争と平和」、「高慢と偏見」、「赤と黒」など、そういう格調高い本格小説の流れを汲んでいるみたいだし、実際、そうなのかもしれない。
 山根さんと美波の、これ以上ないほどまわりくどい純愛は、この、セックスがたやすい時代に、はたして、恋愛(近代小説が過大な価値観を付与し続けてきた)は可能なのか、と思わせる。
 シュトルム・ウント・ドランク的な恋愛を、今という時代に外から見たら、あずさのいうように「キッモチワルイ」のではないか。もちろん、山根さんと美波の「キッモチワルイ」関係が、シュトルム・ウント・ドランクのなれの果てなのかどうかは異論があるだろうけれど。
 いま、世間をみていると、女性の側からのヘンタイの肯定みたいな動きが出てきているように思う。腐女子なんてのは、男からすると完全にヘンタイだし、逆に、男性のヘンタイさに対する寛容度も広がってきている気がする。チュートリアルの徳井なんて、ヘンタイを売りにしてるし。
 80年代のオヤジギャルから始まって、日本の女性は、どんどん女性という概念の地平を広げてきた。ヤマンバとか汚ギャルとか意味わかんないものの、女という固定概念に挑戦している感じはある。鉄子とかクーガーとか、女が今までやらなかったことをやる楽しみって絶対あると思うんだよね。
 だから、江戸川乱歩の「屋根裏の散歩者」とか、「人間椅子」とかああいう、ヘンタイの楽しみを簒奪される立場から、女も共有する立場になろうとするのはむしろ、この男女共同参画の世の中では当然だった。
 「男もすなるヘンタイてふもの、女もしてみんとて」というわけ。
 で、そういう時代に恋愛って何なの?っていうこと。
 長嶋有の「ジャージの二人」の時もそう感じたけれど、よくもわるくも、時代の底が割れちゃったときに、古い価値観にしがみついているやつより、自分の価値観で先に進んでいくやつの方が好きだ。
 ところで、この文章が、映画「乱暴と待機」の紹介に全くなってないのは非常に心苦しいのだけれど、とにかくいろいろ考えさせられる映画で、しかも、観ている間は、ただただおかしい。
 とくに、あずさの破水のシーンは、映画史に残る名シーンだと思った方も多いだろう。
 浅野忠信小池栄子は、いま、のってるんだろうな。