石破茂、坪内祐三×福田和也、辻広雅文

 今朝、田勢康弘の番組に石破茂が出ていた。
 田勢が、
 「官邸周辺を取材していると、菅直人首相のところに資料を持っていくと、『どうしてこんなものを俺に読ませるんだ?!』と怒鳴られるので、結局、資料が仙石さんのところに集まっちゃうって言うんですね」
 というと、石破は
 「小泉純一郎首相は、A4の紙二枚しか読まない、と、よく言われましたね。分厚い資料を作るのは簡単なんですよ。それをA4二枚にまとめるのには大変な力量がいる。そういう意味では、官僚の能力も落ちてるんですね。」
 と応じていた。
 田勢が、菅直人指導力のなさを言おうとしたのは明らかだったが、石破は、外形の事実は変えないまま、意味を逆転してみせた。
 石破茂菅直人をかばう必要はないので、これは大塚公平的な詭弁ではなく、彼が、現状についてしっかりした定見を持っていて、提示された情報について、即座に洞察を働かせて、しかもそれを瞬時に言葉にできることを示している。
 こういうことは容易にはできない。多くの政治家の場合、テレビキャスターの誘導にのっていってしまうものだ。今回の場合は、敵対する政党の党首についてのことなのだからなおさらである。
 つまり、石破茂という男は切れる。
 しかしどうだろう?。田勢康弘は、比較的公平な方だと思うが、今回のような場合、マスコミのほとんどは、(とくにワイドショーなどでは)誘導にのってくれることを期待(もしくは要求?)するだろうし、のってこなくても‘のってきた体で’番組を進めるのではないか?(桂三枝新作落語にそういうのがあったか)。
 最近、わたしには、政治家、官僚、マスコミが、三位一体でバカになってきているように見える。
 今週の週刊SPA!の坪内祐三福田和也の対談が面白かった。その冒頭、

 坪内 「最近、外交問題がつぎつぎと起こって・・・もう尖閣ビデオ流出騒動が昔のことみたいだよ。あの騒ぎヘンじゃない?」
 福田 「うん。ビデオ見る前から、中国側が当たってきたってわかってたわけでしょ。議員が見て。記事も出て。」
 坪内 「そうなんだよね。ビデオが出て、初めて真相がわかったわけじゃないんだよ。なのに、なんで大騒ぎしたの?大騒ぎしたことのほうが怖いよ。」

 マスコミがあの流出ビデオに騒然となった理由は、テレビっ子にはあまりにも明らかで、それは、‘動画があったから’にすぎない。見た目が刺激的であれば文脈はどうでもいい、というテレビのスタンスを、知らない視聴者がいるか、逆に聞きたい。
 それで、リークした海上保安官を正義の味方に祭り上げる。またしても正義の味方の登場。なんとも貧弱な文脈。
 マスコミが小沢一郎を批判するときに使う「政治とカネ」というのを聞くたびに笑ってしまうのは、彼ら、ついに、「政治」と「カネ」という二題話をまとめることができずに、お題のまま放り出してしまっている。思考能力が極端に落ちている。
 あの尖閣のことについては、だいぶ事情が明らかになってきた。前原誠司ヒラリー・クリントンに言った
「国内法で粛々と対応する」
のは、‘困る’という判断が働いたらしい。国内法を適用することは、‘尖閣海域に対する日本の実効支配を宣言することになるから’ということらしい。それがどうして困るのか私に理解できないが、前原誠司と官邸に齟齬があったのは確かみたいで、そこがもっとも批判されるべきだろうが、前原誠司には、すくなくとも、方針はあるが、官邸にはそれさえみえない。
 だが、その批判の対象となるべきなのは、菅直人や仙石由人個人ではなく、与野党問わず政治全体と官僚、さらにはマスコミまで含めた、既存のこの国を動かしてきた立場の人たちの硬直化した態度なのだと思えてきている。
 小沢一郎がまた動き出しているが、「公約の実現」みたいなことを話しているのは、いったいどういうつもりだろうといぶかっている。
 政権交代の選挙直後、率先して公約を破棄してまわった(マニフェストにない郵政行政の逆行を密室で決め、高速道の無料化を陳情にこじつけて撤回した)のは彼自身だったはずだ。
 鳩山政権が、細川政権とまったく同じ日数で崩壊したとき、私は小沢一郎の能力の限界(なんと、あれほど高かった無党派層の支持率を4%にまで引きずり下ろした)を見た。会いたくない人間には面会もしないというようなことでは、どんな小さな組織も機能するわけがない(ましてや、大連立って?)。
 組織人として無能で、社会人として幼稚。彼が有能といわれているのはきわめて限定的な意味に過ぎなかった。有能な選挙屋で、それ以上でもそれ以下でもなかった。
 私はあのマニフェストの、間接的な分配から、直接的な分配へというシフトのあり方は、基本的な考え方として間違っていないと思っている。ただ、ほんとに直接分配的な社会になるなら、消費税は上げてもよかったのではないかと思っている。そのことは、いつかも書いた。
 12月2日の辻広雅文の
‘「成長率も失業率も低い社会」と「成長率も失業率も高い社会」のどちらを選ぶか〜ノーベル賞受賞の「サーチ理論」で解く日本の労働市場’
という記事も面白かった。
 日本の近代工業化社会は、とてもうまくいったし長く続いた。それでも、それは永遠不変の価値ではない。いかに長い期間限定セールでも、それが終われば値札は書き換わる。それで怒鳴り込んでくるのはモンスター○○だけ。
 しかし、上の、辻広雅文の記事の最後のアンケート結果を見れば、それでも、どうしてもそれが理解できない人たちが、少数とはいえないほどはいるということがわかる。
 小泉純一郎に対する私怨はどうでもいいが、構造改革は避けて通れない。そして、構造改革にともなって、分配のあり方を変えるのは、むしろ望まれることだった。それに、分配のありかたの変革は、自民党よりもしがらみのない民主党がやりやすいはずだった。
 それが、どういう勘違いをしたのか、鳩山政権の一部は、時計を逆回転させてしまった。
 現状の混迷というか支離滅裂を打開するには、やはり、強いリーダーシップしかないと思うし、そのリーダーシップを担保してくれるのは、選挙による有権者の支持でしかない。
 郵政選挙の圧倒的な国民の支持を、勝手に次々と踏みにじったからこそ、麻生太郎はあそこまでの大敗を喫した。
 それを目の当たりにしながら、民主党はなぜ公約を守ろうとしなかったのか。公約を守らなかったことが、今の混迷を生んでいる。
 あのときも書いたが、公約を実現すること以外に政治主導なんてありえないのだ。