この国を蝕む社会主義者の群れ

 先日、
「かつて『世界でも最も成功した社会主義国』と言われた日本は、このままでは『世界で最後に滅んだ社会主義国』と称されるでしょう」
という、「週刊現代」に、堺屋太一が寄せた文章の一節を紹介した。
 私は今までもこのブログで、「格差社会」ということばに、違和感を唱えてきた。格差のない社会なんて、そもそも存在しないのだし、また、格差があることが不幸であるわけではない。後には、ワタミグループの渡辺美樹氏が「競争のない社会こそ、格差社会ではないか」と書いている記事を見て、我が意を得たりした。
 「格差社会論」も、ずいぶん下火になったが、堺屋太一の文章にふれて、‘格差’に対する過剰な反応こそ、実は、この国の大衆に、潜在的社会主義者が少なくない証左だったのだと思い当たった。
 なんといっても、この国の、長く続いた高度経済成長を、構造として支えてきたのは、野口悠紀雄が、その著作で詳細に読み解いた、いわゆる‘1940年体制’すなわち、戦時体制下の官僚による計画経済、社会主義そのものだった。
 ゴルバチョフが賞賛した、日本のその‘社会主義の成功’が、自由主義国家であるはずのこの国に、潜在的社会主義者を育んできたとしたら、そのことが、バブル崩壊後、日本が再起できない最大の足かせになっている可能性は大いにある。
 そういう潜在的社会主義の例をいくつかあげてみたいと思う。
ひとつには、‘格差社会論者’がよく口にする‘健全な中流階級’というのがある。
 いかにももっともらしいが、よく考えてみればわかるように、中流が健全で、上流や下流が不健全という考え方自体が、すでに社会主義なのである。本来、健全さと階級とは、なんの関係もない。上流でも下流でも、健全な人はいるし、中流に不健全な人がないとはいえない。むしろ、階級の差を価値観と結びつけることこそ、とりもなおさず差別意識だ。
 こうした‘中流信仰’とでも言うべき心理は、日本社会を読み解くときに、折りにふれ、その時々によって、様々な形で顔をのぞかせているように思う、‘ムラ社会’、‘集団主義’、‘鎖国的’、‘閉鎖的’、‘内向き’など。
 しかし、問題の本質は、そういう心理が、私たち日本人の固有の心理である(私はそう思わないが)かどうかではく、そのことが、構造によって誘導されてきたことにある。
 たとえば、「標準家庭」ということばがある。これについても、堺屋太一が指摘しているが、そもそも家庭のあり方にまで「標準」を押しつけられるいわれはないはずだが、しかし、構造が、そういった「標準家庭」を優遇すれば、一般市民は、否応なく、その標準を志向せざるえない。
 じつは、そのことこそ、高度経済成長期に‘健全な中流階級’が膨張した要因だった。言い方を換えれば、多様な生活のあり方を否定し、画一的なサラリーマン家庭を営むことを、構造が国民に強要したにすぎない。
 その目的は、急成長する産業に、労働力を集中させるためだった。必然的に、農業、漁業、林業といった、成長とは無縁な産業は疲弊していく。自民党政治は、そこに補償や規制といった、ばらまきと保護政策で、不満を和らげてきたわけだが、それは、表面を取り繕っているにすぎないし、また、その副作用として、八ッ場ダムに見られるような、住民同士の不和を招き、労働市場の流動化を阻害し、族議員、官僚、財界の癒着の土壌を育ててしまった。
 バブルが崩壊し、高度経済成長が終焉をむかえるとともに、そのような付け焼き刃が機能しなくなるのは当然で、それを改革したから‘健全な中流階級’が消滅した、などという批判は、見当違いも甚だしい。
 もうひとつは、いわゆる‘正社員クラブ’。
 昨日、テレビで「釣りバカ日誌」の最終回を見ていたら、三国連太郎演ずる、スーさんこと、鈴木建設会長が、大団円のスピーチ、
「企業は株主のものではない、また、経営陣のものでもない、そこで働く皆さんのものです」
というのがあって、感動的だし、せっかくの人気シリーズのラストに水を差すのも気が引けるのだけれど、地上波の放送を機会に批判させていただくと、これなど、まさに、正社員クラブ礼賛以外の何ものでもない。
 私に言わせれば、企業が、株主のものでもなく、経営陣のものでもないとすれば、同じように、そこに働く人たちのものでもない。企業は企業としての社会的な責任を負っている、にすぎない。
 それを「働く皆さんのものです」というと、それが一般に受けてしまうのは、やはり、それも日本の社会主義的な一面といわざるえない。
 日本の正社員が異常に手厚く保護されていることは、国際的にも批判されたことがあったが、このことについては、田原総一朗の最新のコラムにも触れられている。
 日本の大企業の正社員は、もはや、「職業」ではなく「身分」だといっている。職業が身分に変質してしまうのは、労働市場が流動化せず、雇用が固定してしまうからだ。そのことも実は、構造が強要していることだ。
 奇しくも、元スウェーデン財務大臣ペール・ヌーデルは、ダイヤモンド・オン・ラインのインタビューに、
「人は守る、が、雇用は守らない」
と答えているのが、社会主義と、社会民主主義の、雇用に対する考え方の違いを、端的に表現していて興味深い。
 投資家も、経営者も、労働者も、等しく「人」であり、それらは、それぞれの人がおかれた状況であるにすぎない。固定化された身分ではない。
 労働者は、同時に投資家であるだろうし、翌年には経営者と労働者が入れ替わっているかもしれないのだ。
 おそらく、日本の貯蓄が、極端に安い金利にもかかわらず、投資に回らないのも、正社員の身分が「絶対安全だ」という意識によると思う。多くの国民は、自分たちの金を官僚に丸投げしていて、そのうえ、それが、なんとなく正しいことだと思っている。そして、投資することは、なんとなく、後ろめたいことだと感じているのだろう。
 世界第二位の経済大国、中国の労働者の賃金は、第三位の日本の労働者の10分の1にすぎないそうで、テレビ東京の解説員は、今後、この格差は縮小されていくだろうと言っていた。雇用を固定化し、産業構造が変化することを妨げてきた、社会主義的な構造の、当然の帰結である。事実上、これは、この国が望んだ結果だといえる。格差を憎む人たちは喜んでいるだろう。
 小泉竹中改革による格差社会を批判し、正義を愛する人たちは、自らすすんで、給料を10分の1にしてくれと、経営者宅に殺到しているはずだ。ニュースにならないのが不思議だ。
 もうひとつは、新自由主義とか、市場原理主義とか言う批判だが、そもそも、○○主義とか、○○派などという呼称は、他人を批判するときに、批判に都合のいいようにでっち上げるに決まっている。たとえば、「印象派」は、サロンでさんざんにこき下ろされた、モネの絵のタイトルからとられたものだし、フォービズムもキュービズムも同じようなことだ。
 浄土真宗一向宗と呼ぶことがあるが、これももともとは蔑称である。蓮如上人は、「自分たちからは名乗らないけど、そう呼びたければどうぞ」みたいなことを書き残している。
 村上龍竹中平蔵の対談を紹介したときにもふれたことだが、公的資金を注入して、銀行を破綻から救ったのは竹中平蔵である。これと同じことをアメリカでやったオバマ大統領は、対立者からは、社会主義者と批判されている。
 官僚、族議員、恩恵を受ける団体、報道関係、そういう連中は、この文章で、構造といってきたものの一部だから、彼らが、今の構造を維持しようとするのは、わかりやすい。
 私が、心折れるのは、むしろ、簒奪される側であるはずの国民の、少なからぬ一部が、この構造へ連なろうと、必死にしがみついている姿だ。
 石井光太の『物乞う仏陀』には、幼いころに親もとからさらわれ、物心つかぬころは乞食の小道具に使われ、少年となっては、四肢を切断され、目をつぶされて物乞いをさせられ、長じては眠っている間に、内蔵を取り出されて売られてしまう人たちがルポルタージュされている。それは、まぎれもなく私たちの同時代人なのである。
 日本の貧困とは何だろうか。朝まで生テレビで、雨宮処凜があげていた貧困の例は、失業してネットカフェにいるけど、お金がないので助けてくれと電話してきた男である。
 もし、これが貧困だとするならば、こういうことを貧困だととらえる心こそが貧しいと、私は思う。
 そのとき、雨宮処凜は、
「私たちは、普通の仕事がしたいだけ」
と言っていた。
 彼女自身は、おそらく無意識だろうと思うが、「普通の仕事」とは何なんだろうか。もし、貧困が問題であるならば、必要なのは、「仕事」であって、「普通の仕事」ではないはずだ。
 普通の仕事をしている人たちはどんな人たちだろう。たぶん、ホリエモンのようではないだろう。高遠菜穂子でもないだろう。国母和宏でもないだろう。
 普通でない仕事をさげすむその意識、言い換えれば、幻想の‘健全な中流階層’を志向してやまないその意識こそ、この国を蝕んでいる核だと私には思える。