世界で最も成功した社会主義とモンスター心理

 私の風邪の現状は、沢尻エリカ高城剛に似ている。もう終わっているのにセキだけ抜けない。
 ちょっと思うところがあって、「社会主義」というキーワードで、自分の日記を検索してみた。
 一昨年の夏の記事に、こんなことを書いていた。

 ソ連の崩壊という形で冷戦が終わったとき、私たちは勝者の側にいたつもりだった。が、実は敗者の一員だったのかもしれない。負けたことに気がつかないほど鈍感だっただけかも。

 今ふりかえると、村上龍竹中平蔵のふたりが、竹中平蔵バッシングとはつまり何なのだろうか?と、首をかしげていたことが、ますます印象深い。
 問題は、論理ではなく、心理だったのだ。
 舛添要一は、週刊現代のインタビューで、民主党の政治家たちを‘モンスタークレーマー’だといった。
 また、SPA!の1/25日号では、猪瀬直樹が‘国民がモンスターペアレンツ化している・・・’と慨嘆していた。
 ‘最も成功した社会主義国家’と、ゴルバチョフが日本を評した言葉は、その成功の本質を言い当てていると同時に、その構造的な欠陥も指摘していたはずだった。
 一握りの成長産業が、輸出で稼いだ外貨を、公共事業という形で、生産性の低い業種へと流して、ゆがんだ形で雇用を作る。 
 たばこがまだ専売事業だったころ、土建屋の数は、カドのたばこ屋より多いと言われていた。
 もちろん、そんな社会構造が可能だったのは、まだ、地方のインフラ整備が行き渡っていなかったころまでであることは言うまでもないはずだ。
 しかし、そういう社会構造が結局、既得権益を作り出し、政官業の癒着を生み出してしまい、高度経済成長が終わって、新しい成長産業を生み出していかなければならないというときに、そうした分野に、必要な金や雇用が回らなくなってしまった。
 一例を挙げれば、80年代、紛れもなく世界のトップだった日本の環境産業を、日本の政治や官僚が、新しい日本経済の担い手に育成する努力をしたか、それとも、逆に、既得権益を守るために、新しい産業が育つことを阻害したか、どちらだろう。
 小泉改革が、郵政民営化推し進めようとしたのも、財政投融資の資金源として、官僚の意のままに動かされてきた郵便貯金を、市場に出すためだった。このことを、もし、市場原理主義といっているのなら、そういう人間は、たしかに、市場原理主義者ではないだろう、はっきりと、官僚社会主義者なのだから。
 だから、小泉改革を批判し、竹中平蔵をバッシングしているのが、既得権益の側の人間であるとすれば、それは非常にわかりやすいし、あのとき、村上龍竹中平蔵のふたりも、一応の結論をそこにおいたのだった。
 だが、ふたりが見落としていたこと、そして、今でも、闇に隠れて見えない、それらバッシングの本当の主役は、長く続いてきた官僚支配の社会に、こころまでどっぷりと浸してしまった、名無しの大衆の、その救いがたいモンスター心理だったのである。
 2004年の、イラク人質事件を憶えている人も多いだろう。イラクで人質になった現地のボランティアたちが、解放されて帰国する空港に、「自業自得」とか「ヌルポ(?)」とか書いたプラカードを掲げて、罵詈雑言を浴びせかけた日本人が数多くいたのだ。
 このことは、日本人だけでなく、世界中の人たちに衝撃を与えた。今までも何度も書いてきたことなので、繰り返さないが、今でも憶えているのは、鴻上尚史はSPA!のコラムに「もう日本人をやめたい・・・」と書いた。
 私もショックを受けた。世界のどこに、他国で誘拐された同朋が解放されるときに、薄汚い言葉で罵りあざ笑う民族がいるだろうか?
 私は、今までも書いてきたとおり、これらのモンスター化した国民は、実は、さほど多数派ではないと考えている。ただ、声がでかいのと、すぐに群れ集まるので、多数派に見えてしまう。そして、これが問題だと思うのだけれど、マスコミがそれに乗っかってしまう。
 だが、たしかに、少なからずいるのだ、こうしたモンスター化した日本人が。
 ‘小泉と竹中のせいで日本が格差社会になった’などという戯言の、裏側にあるのは、論理ではない、そうしたモンスター心理だったと私は思う。
 先日も書いたが、同じように不良債権の処理をしても、竹中平蔵は‘新自由主義者’と非難され、バラク・オバマは‘社会主義者’と非難される。事実は、どちらも、政治家としてやるべきことをやったにすぎない。非難する側にかけらの論理もない。彼らの事実は、文句を言う以外に社会的行動を知らない、と言うだけのことなのである。
 その心理を培養してきた病巣こそ、今に至るまで長く続いてきた、社会主義的な官僚支配社会だったのだろうと思っている。
 日本のマスコミに関しては、ついに、日本版のニューズウイークまで‘マスゴミ’という言葉を採用し始めた(1/19日号「日本の新聞はだからつまらない」)。
 日本の大新聞は、戦争中は率先して戦意をあおった、事実上の戦争犯罪人であるにもかかわらず、その自分たちの責任は棚上げにしたまま、相変わらず、官僚のちょうちん記事を垂れ流し続けている。
 目を見開いてよく見て欲しい。あの村木厚子の冤罪のような大事件があったにもかかわらず、現に、いま、捜査の可視化に積極的に取り組んでいる大新聞が、ひとつでもあるだろうか。大相撲の八百長には声を荒げるくせに、自分たちの八百長には口をつぐんだままだ。
 官僚主義という根っこで気脈を通じた「格差社会論」に過敏に反応したことこそ、彼らの本性をよく顕している。彼らが官僚の広報機関にすぎないことを、如実に示している。
 これら、マスコミと大衆が共有するモンスター心理の育む社会は、つまりいじめ社会じゃないのか。競争社会を否定して、誰も勝者にも敗者にもならないように手をつなぎあっている社会は、そのつなぎあっている手を、人目につかないようにつねりあっている、陰湿ないじめ社会にすぎないのではないのか。
 競争だけがすべてではないと、きれい事を言いながら、誰も勝者にならないように、お互いの足を引っ張り合っている。フェアに競争したことがないので、負ける痛みもしらず、勝つ喜びも孤独もしらない。
 そして、負けを認めず、勝者に言いがかりをつける。例の、管理人に見捨てられた便所の落書きの、キム・ヨナを誹謗する書き込みについてのくだらないごたごたも、すぐに思い起こせるはずだ。
 日本では、マスコミがまともに政治の監視機関としての役割を果たしていないために、事態が見えにくくなっているが、日本の政治が、まずまっさきに取り組まなければならない問題は、ずっと、官僚主義でありつづけている。失われた30年の真の病巣は、紛れもなく官僚支配の社会構造なのだ。
 野口悠紀雄この記事と、岸博幸この記事を読めば、増税さえすれば財政が健全化するという考えが、いかに危ういかよくわかる。
 官僚たちが、いかに言葉巧みに抵抗しても、断固として行政改革を行う政治家こそが、今、必要な政治家だ。そうでない政治家は、退場すべきだ。