『正宗白鳥 その底にあるもの』

 以前、中村光夫の「「近代」への疑惑」の一節を引用した。

 これまで我国において「近代的」といふ言葉は、大体「西洋的」といふのと同じ意味に用ひられてきた。
 そしてこの曖昧な社会通念が、なほ僕等の意識を根強く支配してゐるのは、それが大体次のような二つの事実を現実の根拠とするであらう。
 そのひとつは我国においては「近代的」と見られる文化現象はすべて西洋からの移入品であつたといふことであり、いまひとつは僕等が「西洋」のうちにただ「近代」をしか見なかつたといふことである。

 この文章は、軍官僚がこの国を、戦争の泥沼に引きずり込み始めたころに書かれている。
 急速な近代化を成し遂げる一方で、反発するにも、希求するにも、そもそも「近代とは何か」ということ自体、ずっと曖昧なままだったことが、明治以降、日本が演じた滑稽について、汲めど尽きせぬ源泉となったし、今でもそうあり続けていると、私は思う。
 山本健吉が、1975年に出版した『正宗白鳥 その底にあるもの』が、今年、講談社学術文庫から再版されたので読んだ。
 若いころ、内村鑑三に感化され、カトリックの洗礼を受けた正宗白鳥だが、すぐに、棄教を宣言し、内村とも袂を分かつ。
 しかし、それからおよそ60年を隔てた死の直前に、キリスト教へ回帰し、若い日に洗礼を受けた植村正久の子、植村環牧師に葬儀を依頼した。
 この、少し唐突に見える信仰回帰が、例によって、閑人の耳目をそばだたせたが、その辺の論争については、私は何の興味もない。
 正宗白鳥の死の様子について、「世界との和解」という章から少し引用する。
 正宗白鳥は、入院後、膵臓癌の診断を下された

・・・この間にも、白鳥は植村牧師からの葬儀の確約を、空しく待ち続けた。次第に肉体の衰えが進んでくるに従って、白鳥はこの一事がひどく気がかりでならなかった。
 十月六日に深沢七郎氏を呼び、植村に葬儀のことを頼んでほしいと言っている。十一日、深沢氏は夫人とともに、植村牧師を訪ね、その快諾を得た。
 翌十二日から、牧師は毎日のように病室を訪れて、讃美歌をうたい、聖書の話をして、十数回に及んだ。
 死の一週間ほど前、白鳥は牧師の手を握りしめ、独歩が死の前に正久に祈れと言われて祈れないと泣き出したことを言い、牧師の顔をじっと見て「アーメン」と言った。

 ここに書かれている、国木田独歩の臨終について、私は、ごく若いころに、すでに知っていた。この本を読んで、改めて思い出したが、どうしてこんなことを忘れていられただろうかと不思議な気持ちになった。
 自らの死を前に、牧師に「祈れ」といわれてなお「祈れない」と言って泣く、その明治の男の、誠実に心打たれずにおれない。
 昨日までは「南無阿弥陀仏」と唱えてきたかもしれないけど、今日から「アーメン」といいなさい、といわれて、唯々諾々と受け入れるわけにはいかない。
 「近代」として流れ込んできた「西洋」に、理性をもって対峙することで、少なくとも彼らは、「西洋」に「近代」だけを見るわけにはいかなかった。自分たちの血肉となっている東洋の文化を捨ててまで、「近代」を手に入れようとした理性は、あえて「アーメン」とはいえない。もし、それを言ったとしたら、たしかにウソになる。
 だが、では、なぜ泣くのか。
 正宗白鳥が、植村環の手を握って言おうとしていることは、国木田独歩が、植村正久に向かって訴えただろう、まさにそのことなのだ。
 ただ、若い国木田独歩が植村正久に訴えていたことを、老い正宗白鳥は、植村環その人に問おうとはしていない。植村環その人に答えがないことは、正宗白鳥も重々承知している。だから、彼は「アーメン」といえたのではないか。
 若い国木田独歩は、その答えが得られると信じていられたかもしれないが、老い正宗白鳥は、その問いを問いたかっただけなのではないかとも思う。
(あるいは、あえてこう書くべきだったろうか。その問いを問うとこころさだめたと。たとえ、答えがえられなくても。)

 牧師は、「先生はいまさら懐疑でもないでしょう」と言い、イエス使徒トマスに言った言葉「見ずして信ずる者は幸いなり」その他の話をすると、白鳥は「私は単純になった。信じます。従います」と、「安心しきった顔をして」言った。それらは夫人正宗つ禰の『病床日誌』(「文藝」)と「明治の文人・白鳥その死とその意味」(「週刊朝日」)における植村牧師の証言による。

 人は、生物として死ぬだけでなく、社会的存在として死ぬ。その意味については、私はもう少し考えてみないといけない。
 しかし、ある証言によると、正宗白鳥は、植村環牧師に葬儀を依頼した後でさえ、植村環牧師が
「聖書の勉強をいたしましょう。どんな偉い作家でも、神様の前では無力なものです」
と、祈りをしようとしたとき、ふいに席を立って部屋を出て行ってしまったことがあるそうだ。夫人は、恐縮して平謝りだった。
 国木田独歩もだが、自分の心に誠実であるのでなければ、はじめに入信もなければ、棄教もなかった。また、信仰回帰もなかった。
 独歩が祈れないのと同じ理由で白鳥も祈れない。
 この証言にある植村環の言葉をそのまま言い換えれば、どんな偉い牧師でも、実のない言葉は心に届かない。だが、これは、まぁ、まったく私の心に浮かんだ一場の心理劇にすぎず、正宗白鳥の真意がどこにあるかは誰もわからない。
 正宗白鳥自身の文章にはこうある。

・・・それ(植村環牧師が正宗白鳥宅を訪ねたとき、たまたま居合わせた数人とうたった讃美歌)を聴いてゐると、故先生(植村正久)が愛嬢Uさんに命じて死の影に襲はれんとしてゐる老いたる私の所へ行って、永遠の光を示さうとされたのだと、私は感じた。私は独歩のことを思ひ出した。簡単に直言すると『あなたのお葬式は私がお引き受けします』と、老婦人Uさんは無言のうちに、私達に伝へてゐるらしく私は感じた。

 ここでも思い出しているのは独歩のことなのである。そして、正宗白鳥が、植村環の背後に見ているのは、結局、若き日に洗礼を受けた植村正久なのだった。
 これらのことから、入信、棄教、信仰復帰を通して、そして、もちろん、「今年の秋」などの作品を通しても、この人の人生を貫いている問いの深さについて思いを馳せることができるのではないか。
 今は、カルチャーとサブカルチャーの境がなくなってきているし、そのこと自体はよいことだと思うのだけれど、ただ、カルチャーが持っている、問うことの価値、私たちが根を張って生きている土壌をひっくり返す力を、失った文化は、それがどんなものであれ、枯れていってしまうのではないかと思う。