『抱擁、あるいはライスには塩を』

抱擁、あるいはライスには塩を

抱擁、あるいはライスには塩を

 どこで読んだか聞いたか、今思い出せないのだけれど、河合隼雄ではないような気がするが、本来の家長の姿とは、社会に面をあげて、家族を背にして立つべき存在、つまり、言い方を換えれば、人が家長として、家族を築く意味とは、全社会に拮抗して、自分の価値観を生きること、であるはずなのに、母性社会である日本の父親は、むしろ、社会を背に立って、家族ににらみを効かしている、価値観を外界に依存して、家族に向かっているだけの、外界の門番にすぎないので、家族にとって、取り替え可能なパーツとしての存在感しか持ち得ない、という説が、とても腑に落ちたのを憶えている。
 逆に言えば、魅力的な家長が、確固とした価値観をもって家族を率いているとき、よかれあしかれ、その魅力的な家族が、急速に勃興して、どうやらまた、それと同じくらい急速に、しぼんでいくらしい、日本という国の社会と格闘している姿は、一つの家族のクロニクルにとどまらず、私たち自身の時代精神にとっても、懐かしいうつし鏡になるようだ。
 江國香織の『抱擁、あるいはライスには塩を』は、そうした家族の、三代にわたる長い物語を、時代や語り手を、自由自在に飛び越えながら綴っていく。
 男たちをめぐる、女たちの物語ともいえる。愛すること、愛されないこと、愛されること、愛さないこと、の交わらないベクトルが、共鳴しあって、複層の伽藍を築き上げている。
 最後の、睦子の章を読み終わったとき、実際に、聴覚に訴えかけられたかのように錯覚した。その家の、語られない物語まで、聞こえかけたような気がした。
 SPA!の対談で、福田和也は、この小説を「2010年のベスト」と評していた。業者さんにそこまで言われちゃうと、素人としてはそれ以上付け足すこともない。安心しておすすめできるというものだ。