選良と優秀はどうちがうか

 佐藤優によると、この国の官僚たちは、‘自分たちは優秀で、この国を動かしているのは自分たちだ、と本気で信じている’そうだが、200兆円の借金を積み上げるは、デフレは脱却できないは、米軍基地も、北方領土も、尖閣諸島も、何一つ解決できないは、さかのぼれば、中国大陸で無謀な戦線を拡大するは、いったいこれで、何をもって‘自分たちは優秀だ’と思い込めているのか、というあたり、非常に興味深い。
 言い換えれば、‘この国を動かしているのは自分たちだとで信じて’いて、この国が置かれている現状を目の当たりにしながら、なおかつ‘自分たちは優秀だ’と思っているのだとすると、むしろそれは低能の証明でしかないと思うのだが、では、彼らの自負しているその‘優秀さ’とは、いったい何か、ということが、非情に興味深い。
 そもそも自己評価は、理想と現状の比較で表現されるはずだから、国がほとんど壊滅的な状態にあっても、その‘国を動かしている自分たちは優秀だ’と思うのだとしたら、彼らのその‘優秀‘という自己評価は、‘国を動かす身分にいるか否か’にしかなく、その仕事の良否には関りがないということだ。
 つまり、彼らの‘優秀’という意識は、官僚になった時点で、すでに完遂してしまっている。なっちゃえば‘あがり’なわけ。それを思考停止と呼べば呼べる。
 おそらく彼らの‘優秀さ’は、小学生の時に、誰かがうっかり口にした「君は優秀だね」などという言葉の、その心象の、量的な膨張にすぎず、質的な変換は一度も起こっていないだろう。この‘優秀’意識の問題は、優劣を決めている価値基準が、懐疑や対立にさらされず一度も更新されないという点にあるだろう。
 一般の人たちも、東大出の官僚たちが‘優秀’であると、認めるのにやぶさかではないと思う。でも、だからどうしたんだと思っているだけのこと。ほんとに、だからどうしたんだ?ふつう実社会に出れば、大学での成績など、あっという間に過去のものになってしまう。それではない価値を手に入れるのでなければ、何のために社会に出るのか。
 選良と優秀はどうちがうか、と書き始めているわけだが、言葉の定義に興味はないし、たぶん、字義にはたいした違いもないのだろう。ただ、‘選良’という言葉は、もはや死語に属しつつあると思うので、最近、ことに耳障りな‘優秀’という言葉に対置してみようと思っただけだから、話の成り行きで、ここでは仮に、選良という意識には、価値の更新が見込まれているとしておこうか。そうすると、ここで仮に‘選良’と名付けた意識は、不断の更新にさらされていくわけだから、はじめから乗り越えられるべき価値観として存在していることになるだろう。ここで‘選良’と名付けた人たちは、あっというまに、その価値観を捨て去っていくだろう。
 ‘優秀’でも、‘選良’でも、そんな意識を一生持ち続ける意味が、そもそもどこにあるのかわからない。そんな程度の価値観しか持ちえないことこそ惨めだと思う。