堀江貴文の実刑が確定した。
「私が事件を起こしたかのように言われているが、健全な形で世の中に貢献していた会社に、検察がやってきたことで事件になった」
という、彼の発言を今朝の新聞で読んだ。
この事件に関しての私の意見は、最初から一貫している。堀江貴文が何か悪いことをしたとは、まったく思わない。
あの事件のあと、いろいろなことがあったので、今となっては、東京地検特捜部を、正義の使徒だと思う人はひとりもいないだろう。
フジテレビの株に手を伸ばしたために、マスコミと検察が結託して既得権益を守ったと、素人としては、そう思っておけばいいのだろう。報道と検察の癒着を、この事件が白日の下にさらけ出させた。せめてもそのことは忘れないでおこうと思う。
日本経済新聞の社説では、
たとえば東京証券取引所のマザーズ指数は、事件が起きた06年1月からほぼ一貫して下がり続け、現在までに8割強も下落した。
また
企業の新規株式公開は同年の188社から10年には22社へと大きく減った。
さらに
優秀な学生がリスクをとる起業を避け、大手企業への就職を希望する傾向も強まっている。
など、あの事件の影響で、この国の経済がこうむったダメージの大きさを指摘している。
上阪徹という人が4月27日に書いている
日本にもあった時代遅れの金融システムへの危機感
というコラムを見つけた。
私たちの国が、極端に間接金融に偏重していることの危険性をわかりやすく指摘している。
「貯金=善、投資=ハゲタカ」みたいな価値観の、落ちていく先がよくわかると思う。
NHKドラマの「ハゲタカ」は、後に映画にもなったし、大森南朋を一躍スターダムに押し上げたが、当時、巷を賑わせた‘市場原理主義’だの、‘新自由主義’だのの批判の本質は、特異的に長く続いた日本の高度経済成長を、不変の原理のように勘違いした人たちが、間接金融から直接金融へとシフトしていく、必然的な変化に対して生理的な拒否反応を引き起こした、ということだったのだろう。
(特に、‘新自由主義’を云々するのは、キリスト教原理主義が存在していない日本で、むちゃくちゃだったと思うがどうなんだろうか。)
私には、日本がアメリカに比べて、新しい価値観を生み出す力が劣っているとは思えない。ただ、それを社会が経済的に後押しする仕組みがなく、逆に、台頭してくる新しい力を圧し殺す力が働く。それが問題なのだと思っている。
それは、ライブドア事件についても言えることだし、環境エネルギーと原子力発電という図式に置き換えてみれば、今度の原発事故も同じコンテキストで読むことができる。
だから、先日の繰り返しになるが、孫正義が東日本ソーラーベルト構想を宣言したことは、旧体制の黒雲を吹き払う新しい機運として注目しているし、応援しなければいけないと思っている。