駒井哲郎

 日曜日、町田の国際版画美術館で、駒井哲郎の展覧会を見てきた。
 震災以来、セガンティーニ展、プーシキン美術館展、光琳展、と次々に展覧会が取りやめになり、挙げ句の果てに、Bunkamuraのルドゥーテ展までが、縮小開催されていて、なんか気分がふさぐ。ルドゥーテにまでなめられた、というと、ルドゥーテに失礼だし、ルドゥーテ本人は‘そんなこと言われても・・・’だろうけれど。‘田能村直入の方が上だわ’とか毒づいても心は晴れない。
 それに、もちろん、ここのところ、あまり出かけていないのは、なんとか東北に駆けつけられないかなとおもっているためでもある。
 GWに、‘週末を利用して来れるのではないか’と書いたけれど、実際、仕事が始まってみると、現実には厳しい(おもに体力的に)。
 ・・・みたいなことをジェベル200を買ったバイク屋さんでも愚痴ったわけである。初回点検に持っていったので。
「でも、これからますますボランティアが必要となるでしょうし」
みたいなことをいうわけ。ささるんですよね。
 新聞に神奈川の日産の社員が、いわきにボランティアに出かけたという記事が載った。現在、自動車関連の会社の人は、週休4日になっているのを利用しているのだろう。私が目にした状況とほとんど何も変わっていない様子で心が痛む。
 駒井哲郎は、横浜美術館長谷川潔につづいて、黒の美しい版画の世界。ルドンとクレーに影響を受け、長谷川潔に私淑したようである。
 展覧会のポスターに使われている<黄色い家>は、もろにクレーで、ちょっとどうかなと思う。
 ただ、古賀春江が、クレーに倣おうとしてできていなかったのに対して、駒井哲郎は、クレーの音楽性をものにしていて、<束の間の幻影>とか、<時間の迷路>とかの作品では、それをクレーにはない黒で表現している。
 詩画集、詩人と共同作業で、出版物をメディアとして選んだ作品群が充実していて見応えがあった。
 詩画集は、60〜70年代に盛んだったのだろうと思うが、今という時代に、かえって、こうした画家と詩人のコラボレーションは、むしろ受け入れられやすいのではないかと思った。
 金子光晴との「よごれてゐない一日」という詩画集から「よごれてゐない一日」という詩のページが、レイアウトそのまま展示されていたが、金子光晴はあいかわらず鋭いと思った。家に帰って探してみたが、私の持っている文庫本には採録されていなかった。汚れていない一日をもとめて、小さなしみのついた昨日を、つぎつぎと捨て去って、最後に空っぽになってしまう詩だったと思う。私がそう読んでしまっただけなのかもしれないけれど。
 絶筆<帽子とビン>の横のガラスケースに、その絵に描かれた画家の愛用したその帽子が展示されていて、はっとした。
 よごれた帽子がひとつ、美術館にあると、まるで、それだけが絵になることを拒んでいるかのように見える。そして、その帽子を世界からはぎ取って、絵にしようと格闘した画家の証がその後ろにある。画家が世界につけた小さなひっかき傷、そこに世界の手触りが感じられるように思えた。