脱・原発依存によせて

 魚住明と郷原信郎の対談を読んでいて気づいたのだが、検察とマスコミは癒着しているというだけでなく、行動原理を共有している。
 自分たちがでっち上げたストーリーを既成事実化していくことが情熱のすべてであり、真実を知りたいという知的欲求、村上龍の言葉を借りれば、‘情報への飢え’といったものはほとんど持ち合わせない。
 いいかえれば、真実を知ることではなく、虚偽をねつ造することに存在意義を賭けている。このようなマスコミが野放しにされていることが、私たちの国を危うくしている大きな一因だろう。
 たとえば、2009年、西松事件をめぐり、小沢一郎の公設第一秘書の大久保隆規が‘全面自供した’と、全くのデマが一斉に報道されたことがあったが、今に至るまで、訂正も謝罪もされた気配がない。こういうことにいっさい社会的制裁が加えられないということが、果たして健全なのかは考えてみる必要があると思う。
 菅直人の辞任の報道にしても、一国の総理が辞任の決意を固めたとしたら、国民に対して、直接に辞任の会見を開くだろう。
 首相自身の辞任表明もないのに、辞任の報道が流される、といったことは、民主主義国家としてあるべき姿と言えるだろうか。
 あの不信任決議をめぐるドタバタは、菅直人がG8で国を留守にしている間に、小沢派と自民党が結託して起こしたクーデターだったと見ていいだろう。それを‘クーデターだ’と報じずに、‘首相辞任’と報じたマスコミは、クーデターに加担したといわざるえない。
 それに先立つ‘官邸の指示で原子炉への海水注入が中断された’という報道も完全なデマだが、これなど、マスコミ、自民党、官僚が、かなり緊密な連携行動をとらなければ実現できなかったはずである。
 こうした国で、わたしたちは公正な報道をどこに求めればいいのだろうか。
 もし、報道機関が菅直人を批判したければ、批判の論旨を立て、論陣を張ればよい。上のような奸策に加担し、情報操作を行うことは報道機関としての自殺だろう。
 先に、‘菅直人退陣’というストーリーを組んでしまったので、最近の報道を見ていると、‘退陣首相の奇行’、‘常軌を逸した行動’、といった報道しかできなくなっている。
 菅直人に対する個人攻撃ばかりで、‘これからのエネルギー政策をどうすべきなのか’とか、‘原発依存の構造の本質とはなにか’とか、そういう内容の報道には、ほぼまったくお目にかからないと思うがどうだろうか?
 先日、菅直人が「脱・原発依存」を表明したが、これについての報道も「あれは首相の個人の考えだ」みたいな報道ばかり。国の指導者が、個人の信念を国民に語りかけるのはむしろ当然だと思うが、この国では何か不都合なのだろうか?
 原発依存の構造は、とりもなおさず、電力における官僚支配の構造だ。
 ひとたび事故が起きれば、何万人という人が、何十年にもわたって避難を余儀なくされる、また、核廃棄物は処理方法さえ確立されていない、このような危険な代物を‘安全だ’とする情報操作、また、設置する地域の住民の反対を抑え込むためにばらまかれる莫大な補助金、そして、それを権益の源泉とするあまたの天下り団体。
 そして、地域独占と発送電の一体化で阻害される競争原理。
 こうした官僚と業界の癒着構造は、原子力周辺に限ったことではない。今回はたまたま大津波によって洗い出されたというだけのことで、実は、こうした癒着が日本という国全体に覆い被さっている。九州電力のやらせメールももちろんだが、堀江貴文が、フジテレビの株に手を伸ばしたとたんに、東京地検特捜部の強制捜査が入り、強制終了させられてしまう。そして、なぜかその強制捜査の現場にNHKのカメラがスタンバっている、なんて不思議なことも起こる。
 ライブドア事件が象徴しているように、官僚と既得権益が結びついて、産業構造の転換を阻害していると、新しい企業活動を育てることができない。郵政民営化は、財政投融資というかたちで、官僚が莫大な資金の流れを支配する構造を壊すことが目的だったが、結局、官僚の抵抗のために骨抜きにされてしまった。
 脱・原発依存は、また、成長戦略でもある。前グーグル日本法人名誉会長、村上憲郎がいっているように‘発電に原発がいいのか、太陽光がいいのかとの議論にはまったく生産性がない’。原子力再生可能エネルギーかは、発送電を分離し、電力を自由化したあとに、消費者がかってに選べばいい。まず、早急な発送電の分離がもとめられる。発送電分離地域独占の解消による電力自由化は、良くも悪くも競争を促し、新しい電力会社が成長し、その周囲に新しいビジネスモデルが生まれる。
 政権交代直後、民主党には成長戦略がないと、マスコミは批判したものだった。だが、新しい成長産業を育てることは、一方で古い産業体質を毀損することでしかありえない。既得権益ががっちり守られている一方で成長戦略など生まれようがない。
 日本が環境先進国と目されていた1980年代、こころある官僚や政治家、あるいは、気骨あるマスコミ人があれば、これを次世代の基幹産業に育てようと努力したはずなのである。事実、トヨタを世界のトップに押し上げたものこそ、こうした環境への取り組みではなかっただろうか。 
 しかし、実際には、官僚たちは腐ることを選んだ。1980年代、近代工業国家の中で、日本が西欧諸国に追いついたたとき、こうした腐敗が始まったのだろう。官僚連中は、与えられた課題をこなし、定められた目標に向かっていくことはできるが、ゼロから1を作り出すことができない。新しい価値観を想像できない。そんなことができるくらいならそもそも官僚にならない。
 それまで追いかけてきた西欧諸国の背中に手が触れたあと、官僚は業界と一体化して、既得権益を守ることを選んだ。経産省の局長が言うように‘からだを張って天下りポストを守る’存在になった。
 しかし、日本が背中に手を触れたからといって、世界はそこでとどまってはくれなかった。それを鬼ごっこだと思っていたのは日本だけで、世界は、自身の原理で歩み続けていただけなのである。中村光夫が「近代への疑惑」で指摘したように‘僕等が「西洋」のうちにただ「近代」をしか見なかつた’その発想の貧しさと原理意識の欠如が、このような官僚の暴走となって顕れている。
 繰り返しになるが、80年代以降、日本は、OSで負け、金融で負け、もはや世界にどんな意味での影響力も持っていない。無自覚な人たちは、‘ジャパンasNO.1’といわれたころの残像をおかずに、これからも飯を食っていくつもりかもしれないが、みじめなことだ。
 わたしたちはもはや先進国ではない。先進国、後進国という価値観そのものが、近代工業化の時代を過ぎた世界では、すでに何の意味も持たない。
 これからは、わたしたち自身の社会に根をおろし、世界に実を結ぶことのできる原理をみつけていかなければならないだろう。
 津波に襲われる直前まで、防災無線で避難を呼びかけ続けた女性がいた。また、津波が迫る中で、中国からの留学生たちを高台に誘導した男性もいた。こうした報道は世界の人たちを揺り動かし、感銘の灯をともした。私たち自身が、日本人の美徳だなと思えることが、世界に善意の輪を広げた。こうしたことを私たちの文化だと信じるべきなのだ。それが、あの大きな震災が気づかせてくれた、小さな希望であったと私は思っている。
 このまま腐り続けるのか、新しい一歩を踏み出すのか、目先の議論に惑わされず、勇気を持って未来を選択しなければならないとしたら、踏み出す方向は自然と定まるはずだと思う。