原子力安全・保安院の‘やらせ’(シンポジウムなどで、原発の推進に賛成意見が多くあるかのように演出する)が次々に発覚してきた。
しかし、むしろ考えてみる必要があるのは、国民の生命、財産を脅かしかねない政策の可否にまで、このような‘やらせ’を必要とする発想についてだ。なぜなら、それこそが官僚主義の本質ではないかと考えている。
そもそも、なぜ、シンポジウムの任意の観覧者から原発賛成の意見が出されることが、官僚にとってそんなに重要だろうか。
テレビでよく見るシーンに、こんなのはないだろうか。たとえば、飯田哲也でも誰でもよいが、原発を廃止すべきということを理路整然と力説したとすると、そのあとに、官僚か、あるいは御用学者かが、「でもね、現地の住民の方には原発への期待があるのも事実なんですよ」などとひと言付け加える。
そこには、知性に対する反知性の典型的な論法がある。官僚の手法の多くがこうした反知性であり(ここで以前紹介した古賀茂明の上司、経産省の局長の「寂しいなぁ」という台詞を思い出してもよい)、いわゆる‘やらせ’は、そうした官僚の反知性の手法のひとつだといえる。
日経WEBに「リスク確率論 軽視の代償」という記事があった。
スリーマイルとチェルノブイリの事故以後、米国の研究者は確率論的な手法を採用し、原子炉のハードだけでなく、人的な要因や気象、組織、意思疎通などのソフト面を含め、考えられる条件を次々と計算に加えていったという。
行政の手法も進化している。90年代までは設計や運転で一定基準を満たせば、その原発を「安全」と判定する決定論だったが、現在は確率論に基づく規制に転換している。
例えば「炉心溶融(メルトダウン)のリスクは100万分の1以下」と証明すれば、認可を与える。
地元に説明の責任を負うのは、電力会社ではなく、準司法の権限を持つ政府機関の原子力規制委員会である。住民側は異議を申し立てることができるが、「なんとなく心配」という主張はできない。地震、テロなど「この部分が心配」と具体的に指定すれば、規制委は返答する義務がある。
高度な専門知識が必要なため技術人材を擁する非営利組織(NPO)が、住民の代わりを務める場合が多い。
現在、福島原発事故をめぐって、私たちが目の当たりにしている、日本のやり方とはあまりにもちがう。
いちばんのちがいは、「事故の起きる確率は0%ではない」という現実的な認識と、「それでもかぎりなく0に近づけていける」という確かな意志だ。
日本の原子力政策は、「絶対に事故は起こらない」という根拠のない安全神話と、起こりうる危険から目をそらし続ける情報操作だった。
この違いにこそ、官僚主義という日本固有の病巣が、姿を見せているのではないかと私は思う。
そして、そのありかたは、カミカゼの神話を吹聴し、泥沼の戦線拡大を国民に強いた頃の官僚とまるで変わっていない。それは、野口悠紀雄が、現在の官僚体制は1940年に確立されてそのまま変わっていないという‘1940年体制’論を裏書きする。
シンポジウムでの‘やらせ’など生産性のない世論操作が、官僚にとっては是が非でも必要なわけは、今さらいうまでもなく、正確な分析に基づく改革を拒否し、現状を維持しつづけることこそが、彼らの利益を守るからだ。
今の政府の最大の問題点は、
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いくら政治家がやる気を見せたとしても、なかなか官僚がそちらを向いて仕事をする仕組みになっていないからです。
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例えば小泉改革で、郵政民営化や道路公団の民営化、あるいは政策金融機関の統合をやって、「ああ大きく動いたな」と思っても、小泉さんがいなくなった途端にダーと後退してしまうというようなことが起きる。
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だから、たまたま強い人がいたから総理の考える方に動いたということではなくて、どうやって(官僚が)制度的に総理や大臣の方を見ないといけない仕組みをつくるか、それが公務員制度改革の本筋だと思うのです。
菅首相が犯した大きな間違いの1つは、東京電力や原子力保安院の情報を直接聞くことが必要と考え、あるいはこれらからの情報に信頼性がないと考えたときに、原子力学者から直接多くの意見を聞こうとしたところにある。
綿密な情報分析・評価を経ていない断片的情報を首相が聞き、行動することなどあってはならない。首相が判断の基礎にするのは、システムを通じて吟味された情報でなければならない。
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既存の機構が信頼できないと言うのであれば、菅首相は官邸の中に福島原子力発電所事故について情報をスクリーンし、評価するユニットを作るべきであった。
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ところがさらに重大な問題は、民主党政権でよく練られた政策を作るシステムは失われ、統治体制の歪曲が起こっていることである。
ただ、民主党政権が「議題設定権」を押さえられなくても、首相官邸が機能すれば、ある程度は官僚に対抗できたはずだ。だが、民主党政権は「経済財政諮問会議」を、「小泉構造改革の推進に使われたから」という、ただの感情論で廃止する蛮行を犯した。結果として官邸には、少数のスタッフで法的根拠がない、内閣官房の一室としての「国家戦略室」が残った。
上にあげた3つの抜粋は、最初のが古賀茂明の発言。
http://diamond.jp/articles/-/13376
2つ目は、元・アジア大洋州局長田中均。
http://diamond.jp/articles/-/13368
3つ目は、こないだも菅直人の‘思いつき’について書いたときすこしふれた上久保誠人。
http://diamond.jp/articles/-/13204
これらの記事を併せ読むと、橋本龍太郎がつくって小泉純一郎に引き継いだ、経済財政諮問会議を民主党政権が廃してしまったことが、今、いろいろなかたちで弊害を生んでいると思える。
経済財政諮問会議が機能していれば、菅直人も○○会議の増産をせずにすんだかも知れないし、唐突な思いつきをいきなり記者発表するなんてことにならなかったのかも知れない。
もちろん、小泉政権以降の政権にも、経済財政諮問会議は存続していたのだから、せっかくのシステムがあっても、為政者が使いこなせないことも多いだろうが。
ただ、上久保誠人も指摘しているように、政権交代直後、経済財政諮問会議を、ほとんど何の議論もないまま廃してしまった乱暴さには、‘蛮行’といわれてもしかたない、なにか違和感を感じたのも確かである。
私の個人的な感じ方かも知れないが、民主党の政治姿勢には、つねに小沢一郎の人物が反映されているように思う。行動の根っこに理想を感じない。
おそらく彼にとっては、経済財政諮問会議は、橋本龍太郎だったろうし、郵政民営化は小泉純一郎なのだろう。政治的な波及については一切考慮しなかったろうと思う。海部俊樹について書いたことがあったが、小沢一郎や亀井静香は、まさにああいった時代の政治家のあり方を、いまだに生きていると私には見えている。
話を元に戻す。
古賀茂明が目指していた、国家公務員法改正案の目玉は、一つが人事と組織を内閣で一元的に管理する「内閣人事局」の設置と、もう一つが「国家戦略スタッフ」の創設だった。
後者は政治主導を実現するために、首相官邸と各省の大臣が自前のスタッフを思う存分使えるようにする制度です。首相や大臣が、すでに官庁を辞めた人も含めて、能力も高く首相や大臣へのロイヤリティも高いという人を、スタッフとして何人かおき、その人たちの意見を聞きながらやっていくことができるようにしようとした。官邸は「国家戦略スタッフ」、各省は「政務スタッフ」という名前です。
例えば、今回の大震災でも、官邸に外部から人を入れようとすると、ポストがないからといって、参与とか特別参与、顧問とか、いろんな名前をつけて入たけれども、その権限がはっきりしないので、重要な情報を伝えられないなどということがあって、うまく機能しない。
さっきリンクした古賀茂明と高橋洋一の対談を読むと、民主党の腰の砕け方がよくわかるので、一読再読をおすすめしたい。
あいかわらず、マスメディアは菅直人を個人攻撃しつづけているだろうが、菅直人が思いつきを発言し、やたらと会議を増設しなければならない裏にはこうした政治システムの欠陥がある。
こうしたことは、彼ら自身が既得権益のわけまえにあずかっているマスメディアは伝えない。
しかし、もっと本質的なことをいうと、民主党の政権交代の構造的な失敗は、小泉純一郎と竹中平蔵の構造改革を全面否定したことにあるだろう。
そもそも政権交代選挙に‘勝った’という言い方は比喩的なもので、実際には、麻生太郎がバカすぎたにすぎない。あそこまでバカだとへたすれば共産党でも勝てただろう。
それを、小泉純一郎に勝ったと錯覚し、国民が期待しているものは‘格差社会の解消’とやらいうものだと勘違いした。
格差社会というプロパガンダは、官僚支配の構造を下支えするには、ずいぶんと都合のいい認識だ、ということはよくわかるが、それ以外のことはまったくわからない。
そもそも格差のない社会といったものが過去にあったのかどうかも知らないし、今後ありうるのかどうかも、また、ありえたとしてそれが幸福な社会なのかどうかも疑問だ。
ただ、格差ということばに過敏に反応して、周りの連中と背比べばかりしている人間が、この国にいかに多いかということはわかった。
つまり、格差社会という概念は、支配する官僚にとっては都合がよく、支配されている大衆にとっては脅迫観念であるという、実態のない概念が社会を支配する、実に興味深い一例ではあるのかもしれない。
ないといえばない、あるといえばある、こういうものは、原発の安全神話と同じで、官僚が自分たちの支配を有利にするための情報操作、よくもわるくも‘神話’は‘神話’だ。
そういう神話を煽ることが、結局、この国のマスメディアの存在理由だった。
ニューズウィークに
この国のメディアはその本来の使命を果たすどころか、政治の混乱を助長している。政治家同士の泥仕合に加担し、パフォーマンスをあおり、些細な問題をあげつらってヒステリックなバッシング報道を展開する──。
また、日経BPには、なでしこJAPANについて
「結婚したいですか?」
「彼氏はいますか?」
「将来、子供は欲しいですか?」会社で聞いたら、即問題視されそうな質問を、戸惑うことなく口にするテレビ番組のリポーターやキャスターたち。
「金メダル取って、もてるようになりましたか?」という質問を、柔道家の塚田真希さんやレスリングの吉田沙保里選手にしたVTRを流し、スタジオで笑う人々。
いったい何なのだろうか。不愉快な気分になった。
・・・
という河合薫の指摘もあった。
私の推測では、こうした日本のマスコミの限りなく低いレベルは、日本の一般大衆の知的レベルと落差が大きくなりすぎている。
この位置エネルギーが、どのようなかたちになるかわからないが、マスメディアを崩壊させるかもしれない。
すくなくとももうすでにニュースキャスターよりお笑い芸人の方が信用されている。二ユースキャスターをやるのは、食えなくなったお笑い芸人だ。
それで思い出したけど、復興寄席として、落語協会と芸術協会が、協力して寄席を開いた。こういう苦難のときには、ふだんいがみ合っているもの同士でも手をつなぎ合おうとするのがおとなというものだ。
震災を政局に利用しようとしていがみ合っている政治家とくらべると、噺家の文化レベルがいかに高いか、わかろうというものだ。