「ミラル」

 黄金町のジャック&ベティで、「ミラル」を観てきた。
 原作者で、ミラルのモデルでもあるルーラ・ジブリールが、映画に寄せたメッセージに

 私の原作とこの映画、どちらで描かれた物語も一つ一つが真実です。名前を変えたり、いくつかの出来事をつなぎ合わせたり、複数の人の性格やキャラクターを混ぜて一つにしたりといったことはしましたが、すべてが本当のことなのです。中東には、空想の入り込む余地はありません。

 もし、‘空想の入り込む余地がない’と、すべての人が知るようになれば、出口はもう目の前のはずだ。なぜなら、国家こそ空想の最大の産物だから。

 アーリーモダンつまり「近世」は、ナショナリズムを最大の特徴とする、と言ったのは、宮崎市定である。そのナショナリズムイスラム国家の発生を契機にするので、ヒジュラ暦元年=西暦622年を世界の近世の始まりとする。この民族主義は次々と部族の自覚を促すことになり、唐、宋の周囲は多くの民族国家が取り囲む結果となった。
 おおまかに言えば、こうして宋(960年建国)から中国の近世が始まり、周辺諸国の一つだった元の動きを契機としてヨーロッパ近世が発生し、ヨーロッパとイスラムの抗争から大航海時代が、そして、その結果として日本に近世が始まる。

 田中優子の『江戸百夢』の印象的な一節。
 こうして玉突き的に世界に伝播したナショナリズムが、流浪の民だったユダヤ人にシオニズム運動を喚起し、イスラエル建国を来たらしたとしたら、中東に発生した国家主義が、ようやく世界を一周して、20世紀に中東に帰還した。
 その意味で、私たちがあそこで目にしているのは、じつは、国家という概念そのもの、国家主義の自己崩壊の姿だといえる。
 その姿を目の当たりにしている私たちは、国家という妄想の真実について、気がついてもいい。すくなくとも、国家が政治的な諸問題の中心である時代は、とっくに終わったと、認識してもいい。
 国家は、文化のトピックで、政治のイシューではないと、一笑に付すような政治家が、そろそろ主流になっていいだろうと思う。
 国家という空想を排除した現実、空想の入り込む余地のないリアルは、戦争で親を失って路上にうずくまっている子どもたち。国家の概念がこの子どもたちを救わないなら、そこには政治はない。
 かつては、芸術が政治を語らないことは現実逃避だと非難されたときもあったが、いまでは、政治を語ることこそ現実逃避だ。
 ダール・エッティフル(子どもの家)を立ち上げ、生涯をチャリティーに捧げた、ヒンドゥこそが、この物語を貫く背骨だろう。しかし、ミラルが主人公であるのは、ミラルは、ヒンドゥ、そして、ジャマール・シャヒーン導師、ナディア、この時代を苦闘した人たちが、未来につないだ希望。空想の入り込む余地のない場所では、老いて間に合わなかった夜明けを見る、この若者のまなざしだけが、唯一の、そして、至上の希望だからだろうか。