- 作者: 丸谷才一,三浦雅士
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1997/03/10
- メディア: 文庫
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ちなみに、地デジ難民については、週刊文春に「人生モグラたたき!」という連載をもっている池田暁子もだそうで
「なければないで平気なことに少し驚いています。」
と書いている。
「自分にとってのテレビが、主にお笑い芸人を見るための装置だったことが判明」
というのは、わたしの場合もまったくその通り。さまぁ〜ずが見られないのが寂しい。しかし、みごとにそれだけ。ほかに何か見るものがあったっけという感じ。
これは、テレビの世界では、お笑い芸人だけがプロだったということなのだろう。‘ふざけごころ’で情報番組を作っているスタッフと、真剣にふざけている芸人と、その隔たりはパラレルワールドほどもちがう。
萩本欽一が、浅間山荘事件のテレビ中継に日本中が食い入るように見入っているのを見て、「どうしてこの人たちは、ただの山荘の壁を見続けていられるのか、それは、次の瞬間何が起こるかわからないからだ」と悟って、「欽ドン!」にライブの偶然性を持ち込んだ。
それ以来、ビートたけし、タモリ、明石家さんま、島田紳助、そしてダウンタウンと、笑芸人のスキルがどんどんあがるに反比例するように、テレビスタッフのスキルはどんどん下がっていったと思う。
気がつけば彼らのやっていることは、面白そうな芸人を使い捨てにしているだけ。彼ら自身が何かを生み出すなどということは望むべくもなく、むしろ、何かを面白いと感じる自前の感性すらもはや失っていると、新聞のラテ欄をながめるとそう思える。
私の推測では、こうした日本のマスコミの限りなく低いレベルは、日本の一般大衆の知的レベルと落差が大きくなりすぎている。
この位置エネルギーが、どのようなかたちになるかわからないが、マスメディアを崩壊させるかもしれない。
これは、「官僚主義の反知性」のタイトルで書いた文章の一部だが、そのときリンクした
なでしこ報道で露呈した“ニッポン”の未熟な女性観:日経ビジネスオンライン
という記事へのはてなブックマークは200を越えている。これは多い方じゃないかと思っていて、テレビの現状に対する不満がかなり一般的なものなのだという認識を新たにした。
ちなみに‘ぴーかんTV’の事件はこの後なので、テレビに対する不信は、このときよりさらに亢進しているのではないか。
前にも書いたけれど、節電のためにも、テレビ放送を午前9時から午後4時まで全面的に停止するのはいいアイデアだと思う。その分、電力使用量の少ない深夜に放送すればいい。どうしても昼間見たければ録画すればいい。地デジ対応のテレビはHD録画できるものが多いのだし。民放の数も多すぎる。ひとつくらいつぶれてちょうど良い気がする。ちょうどひとつつぶれそうだという噂も聞くし。
映画「コクリコ坂から」公式サイトに宮崎駿が寄せた文章「企画のための覚え書き」に
少女マンガは映画になり得るか。その課題が後に「耳をすませば」の企画となった。「コクリコ坂から」も映画化可能の目途が立ったが、時代的制約で断念した。学園闘争が風化しつつも記憶に遺っていた時代には、いかにも時代おくれの感が強かったからだ。
今はちがう。学園闘争はノスタルジーの中に溶け込んでいる。ちょっと昔の物語として作ることができる。
小林信彦が書いていたように、原作では1980年だった時代設定を1963年に変更したことがあの映画のポイントだったのはたしかだろう。
しかし、丸谷才一の『たった1人の反乱』が世に出たのは1972年である。70年安保闘争からわずかに二年しか経っていないのに、このいきいきとした人物造形には驚かされる。当時の学生運動を正確に見る目を持っていた作家が、丸谷才一のほかに、はたして何人いたのだろうか。
わたしには、今読むくらいでちょうどいい。この本を楽しむためには、自分の読者としてのレベルが、80年代ではもちろん、90年代でも全然追いつけなかったと思う。
丸谷才一は個人と社会を正確にとらえ続けいる作家だと思う。
たとえば、女性の新聞記者を主人公にした『女ざかり』では、「互酬」という概念が話題になる。このことは、いま現に私たちの目の前で繰り広げられているマスコミの原発報道と東京電力の関係を見るとき、いやでも思い出さざるをえない論点だ。原発に反対した山本太郎が芸能界を干されたとき、わたしはこれについて書こうと試みたけれどできなかった。