『誰が日本を支配するのか』

 小田島隆が「大臣の失言と裏を読みたがる人々」という文章を書いている。

 彼が「うんざりする」気持ちはよくわかる。菅政権の‘うんざり度’が高レベルだったので、野田政権にはもうすこしましであってほしいという期待が、意外な支持率の高さにも表れていた。そこへこのくだらない‘失言’。それが‘うんざり’の中身だろう。
 新聞が信頼を失っている現状にふれて以下のように書いている。

 ・・・「情報は疑ってかかるのがリテラシーだぞ」ぐらいな一種ひねくれた感覚が、ウェブにぶらさがっている人間たちのデフォルト設定になってしまっている。彼らは、マトモに書かれた記事をマトモに読もうとしない。やたらと裏読みをしたがる。素直に読むよりは、裏を読む方が高度な読み方なのだと、彼らは半ば本気でそう考えている。のみならず、書かれていることより、書かれなかった部分に真実が宿っていると考えていたりする。ゴルゴ13に出てくるモサド工作員みたいに。

 このあたりほぼ‘やつあたり’である。素直に読んで意味がわかる文章なら、誰も裏読みしない。意味不明な文章だから裏読みされるのだ。ひどい文章の責任を読む側に着せられても困る。小田島隆自身、今回の報道への不信からこのコラムを書き始めているのだし。

 大部分の世界は、真面目な記者が真面目に書いた記事に最も近い形をしている(はずだ)。少なくとも、私はそう考えている。

 少々無責任で、これといった根拠もない希望的な観測だ。本人もそう思っているから、「(はずだ)」という括弧が付記される。余計なお世話だけどたぶん少し疲れているのだろう。気持ちはわかる。
 ときどきこういうことを言う人がいる。たとえば
「大多数の役人はまじめに仕事をしているんですが、一部の心ない役人のために・・・・」
とか
「ほとんどのおまわりさんは善良な方ばかりですけど・・・」
とか。わたしとしては、そんな言いぐさを聞くたびに突っ込んでいる、「何を根拠に?」と。「一事が万事」、「氷山の一角」という言葉もある。構造的な腐敗を個人の責任に押しつけているだけかもしれないのだ。
 まあ、このように、小田島隆の文章もまた裏読みされるというか、つっこまれてしまうわけである。いずれにせよ、時代に関わりなく、大本営発表を鵜呑みにするやつはバカだと思う。

誰が日本を支配するのか!?検察と正義の巻

誰が日本を支配するのか!?検察と正義の巻

 佐藤優魚住昭責任編集だが、佐藤優の文章はない。MOOKと雑誌の中間くらいの内容というか、ほとんど本のすがたをした雑誌。「検察崩壊」と題された郷原信郎魚住昭の対談、石川知裕の獄中日記と、それをめぐっての魚住昭との対談、宮崎学雨宮処凛の対談、で構成されている。
 検察の崩壊に関しては、もはや‘シンプルファクト’にすぎない。あとは、これをめぐる‘正義の回復’が、原始的な手段で行われるか、洗練された処理がされるか、だけが問題だろう。ことここに及んで、誰がいったい、東京地検特捜部を信用している?
 石川知裕は、西松事件連座して逮捕された元民主党国会議員で、小沢一郎の元秘書である。この人の小沢一郎評は「構想力がある」ということだそうだが、今となっては、政治家としての総合的な能力という点では、小沢一郎菅直人もどっこいどっこいだったという程度のことだろう。
 たとえば、いまは小沢一郎が「マニフェストを遵守しろ」といっていることになっているのだけれど、記憶喪失でもないかぎり、政権交代選挙に勝つやいなや、高速道路路の無料化やガソリン税暫定税率の廃止など、公約を片っ端から反故にしていったのは小沢一郎だったことを忘れてはいないだろう。
 こういう人間を評するときに‘構想力’などという言葉が適当かどうか疑問に思う。二枚舌があればどんな構想でもぶち上げられる。政治家の値打ちはそれを実現するかどうかにかかっている。

 しかし、一つだけいっておきたいのは、石井紘基殺害事件からもわかるように、暴走する官僚機構は、人命や人権を犠牲にすることに、躊躇などしないし、その最悪の例が、太平洋戦争へと続く軍官僚の暴走だったことは、いうまでもない。 
 だから、官僚の暴走は、政治の力で押さえ込まなければならないし、そのために、政治主導が必要で、そして、政治主導を担保するものは、選挙しかない。
 選挙に掲げた公約だからこそ、官僚の抵抗をしりぞけられる。政治家が官僚と戦う最強の武器こそ、マニフェストだったはずだ。
 松沢成文神奈川県知事が、「民主党は、マニフェストをもてあそんだ」と評したが、残念ながらその通りだったといわざるえない。

と書いたのは今年の1月だった。

菅直人は目が見えない、鳩山由紀夫は足腰がたたない、小沢一郎は口がきけない

と書いたこともある。
 野田政権は、この‘見ざる、効かざる、言わざる’世代を姥捨てに捨てて、まともな政治をしてほしいと思う。
 宮崎学雨宮処凛の対談は、上記の2つに対比すると、ほとんどシュール。かたや全共闘、かたや、反貧困ネットワークの、賃金労働なんてしたこともないふたりが、「企業ってこうかしら、労働者ってこうかしら」と想像をたくましくしている。
 たとえばこんな具合。

雨宮「・・・自民党がひどいことをやってるときは、楽じゃないですか。バッシングすればいいので。」

それは、楽そうな運動ですね。

雨宮「教育とも関係があるなと思いますね。小学生の頃からまわりが敵で、ライバルを蹴落として自分が上に行って・・・」

ほとんど少女漫画的妄想。ゆとり教育が問題になってるのに。

雨宮「実際に社会に出てからはもっと過酷な生存競争で、正社員ならノルマとか成果主義とか、非正規だと生きるか死ぬかのところで競争しているというか。」

 生きるか死ぬかで競争している非正規社員
 それに、同じ企業で働いているもの同士の競争は、方法的なものにすぎない。実際に社員同士が足の引っ張り合いをしていたら、企業の利益があがるはずがない。
 こうした経験の裏付けがない貧弱な理念を振り回すという点で、全共闘世代といまの反貧困の連中は奇妙に似通っているのかもしれないと、呆気にとられつつ思った。そして、彼らのエリート意識というか、上から目線もまた共通しているようだ。