「ゲット・ラウド」

knockeye2011-09-17

 ららぽーと横浜のTOHOシネマズで「ゲット・ラウド」を観てきた。
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It might get loud
 世代を口実にすると、ジミー・ペイジはもちろん知っているし、「天国への階段」が収録されているLP『レッドツェッペリン4』は、たぶん実家にある。
 それで、いつもながら、いきなり話が筋道をそれて、映画のワンシーンに跳ぶのだけれど、この映画、残念なことにパンフレットを作っていないので、帰宅後に公式サイトで情報を仕入れたが、ジミー・ペイジが、ドラムスの音響について語っていたあの建物は、ヘッドリー・グランジの石造りのホール、「天国への階段」が作曲された場所だった。
 ツインネックのギターで「天国への階段」をかき鳴らす、レッドツェッペリン時代の映像は、ネックが一本じゃとても足りないといった、あふれ出てくる感じがすごい。
 で、話が元に戻るんだけれども、世代を口実にすると、U2くらいまでは、名前だけは聞きかじっていても、ザ・ホワイト・ストライプスにまでなると何のこっちゃわからんのだった。
 でも、この映画の特徴は、時間と空間を縦横無尽に飛び回って映像をかき集めていることで、ロック史に、ジミー・ペイジU2のジ・エッジ、ザ・ホワイト・ストライプスのジャック・ホワイトを位置づけるなら、それぞれに世代的断絶があるとされるだろうし、地政学的にも、ロンドン、ダブリン、デトロイトと共通項を見つけることはきっと難しいはずだが、むしろそういった差異を差異のまま放り出していることが、映像に厚みを増していると感じた。‘自分の作文’をおっかぶせようなどと、この作り手は、みじんも考えていないのだ。
 現に、ひとりずつが独白するシーンでは、音楽への態度の違いを感じる。たとえば、ジャック・ホワイトが移動の車の中で語っていることは、ジ・エッジの方向とは対立しているだろうし、ジ・エッジがダブリンのスタジオで語っていることは、ジミー・ペイジが聞いたら「ん?」と思うことかもしないのだ。
 にもかかわらず、彼らが自分たちの音楽的なルーツを語るときの真摯な情熱、自宅でリンク・レイの古いレコードをかけながら、エアギターを披露するジミー・ペイジの笑顔や、ジャック・ホワイトが今でも一番好きだというサン・ハウスの、ハンドクラップとボーカルだけのレコードは、彼らが音楽への敬意で結びついていると、強く信じさせる。彼らの会話は、こういうときによく感じることだけれど、まるで、私のような凡人に見えない神様が彼らに見えているかのようだ。
 そして、ダブリンやデトロイトという背景のちがいも、(あれはだれだったのかな?パンフレットがないと思わなかったもので・・・)‘Death Do Not Have No Mercy’を歌う黒人の古い映像とともに、ロックが背負っているらしい土地の宿命として複雑な和音を重ねる。ダブリンのテロやデトロイトの荒廃とロックは無縁じゃない。
 ジャック・ホワイトが十代の頃は、「ギターを弾くことはダサかった」と語っていた。彼の世代が大きく違うのは、そういう時代を経てきたことだろう。
 彼ら三人を観ていると、イギリス、アイルランド、アメリカの違いも、じんわりと感じてくる。今という時代でなければ、それはもうちょっと違う見え方をしていたかもしれない。つまり、のっぺりと同一の価値観に秩序づけられた‘格差’として映ったかもしれない。しかし、今のわたしには、彼らの差異が、どんな秩序にも位置づけられない、彼ら自身の個性の表現なのだと思える。
 ひとつだけ字幕で気になったのが、ジャック・ホワイトがサン・ハウスについて語っているとき、‘attitude’ が字幕では‘メッセージ’になっていた。たしかに‘attitude’がなければ‘メッセージ’もないが、やっぱり違う気がした。もしかしたらこの国には‘attitudeが欠乏している。(?)