『友情』 、『幸福論』

友情

友情

 西部邁は、世界に自己を求めすぎる、というのがこの本を読み終えた直後の感想だった。まるで世界全体を自分の認識のファイルに整理し尽くしたいし、整理し尽くせると思っているかのようだ。
 わたしがそう思ったのは、たぶん、著者の三十代の頃、インド、アフガニスタン、トルコ、イラク、エジプト、アルジェリア、モロッコそれぞれのスラム街をめぐった、彼にとって初めての外国体験について、次のように書いている箇所なのだろう。

 それらのスラム街には、そしてあの札幌市街にも、少ない物資と乏しい情報と僅かなエネルギーのなかで、ひしとばかりに真剣に生きている人々の姿があったように思う。
(略)
あの時代の風貌には風格というものがあった。あの人間たちの表情にも品格というものがあった。動物の次元に堕ちる寸前で、なおも人間の次元にとどまろうとする努力が彼らに尊厳を保証していた。

その一方でこう書いている。

 だからその三年後に、家族でアメリカ暮らしをやってみたとき、アメリカの精神面での貧しさをみて、やっぱりなぁとしか思わなかった。

その後、多くの海外体験を経た後も

私の眼が「驚きに見開かれた」のは、インドからモロッコまでの外国初体験のときのみであった、といってさほど誇張ではないのである。

・・・そして、たとえばオールドデリーやカブールで、イスタンブールやカイロで、またアルジェーやカサブランカで、牛や馬と並んで荷車を引いたり、何かを盗んで通りを駆け抜けていったりする少年たちをみやるたび、海野治夫の少年時代のことを目の当たりにするような気がしたというのは本当のことである。

 この本は、西部邁の、海野治夫という八九三(この書き方は著者に倣っている)との札幌の中学での出会いから、彼の死にいたるまで、四十五年におよぶ友情の記述。
 海野治夫という人は、西部邁と一二を争う優秀な学生であったにもかかわらず、貧しさとその他の様々な事情から、八九三の道に進まざるえなかった。
 友情の記述と書いたが、交流とは書かなかった。ましてや交遊などといえるのは、いちど一緒に覚醒剤を試してみたくらいのことである。海野治夫はそのときのことを、八九三のなかまうちではよく話題にしていたという。仲間内で話題にできる程度の気楽な交遊はそれくらいしかなかったということだと思う。
 西部邁は、世界に自己を求めすぎる、と書いたが、その自己像の統一を彼に保証している存在が、海野治夫という人であったように思う。
 また、そのことは、海野治夫が最期に西部邁に託した手記からしても、海野治夫にとっても同様であったようだ。お互いの存在が、お互いの自己を律しあっていたというふうに見える。私が、西部邁が全世界に自己を求めてしまうと思ったのも、彼にとって、現実に存在する他者が自己を律しているとも見えるからだ。西部邁にとっての世界は、まるで、海野治夫と彼の隙間にしかないかのようだ。
 (つまり、かつての学生運動を指導した西部邁は、結局、世界を貧富という価値観で引き裂いている。それは今でもキャッチーな物語だが、私にはウソだと思える。)
 そうした存在の死が、西部邁の自己にとってどんな意味を持ったか、軽々しく口にできないのはもちろんだが、奇妙なことに、海野治夫の死じたいが、焼身自殺とも投身自殺ともいわれ、最後まではっきりしない。著者は自死と信じているようだが、身勝手な一読者としては、そのこと自体にも疑問を抱く。
 初めには明確で決定的なストーリーが、最後に、それとは対照的にあやふやな結末に消失していく。
 ここに描かれているものは、古い言葉で、世界苦といっていいのだろう。世界を変えることができるかどうかはともかく、こうした世界苦を感知する感覚があるかどうか、そうした目の高さだけが、品格と呼びうるものだ。
 西部邁というひとを思うときに面白いなと思ったのは、以下のような文章だ。

 私には、自分自身について思うことが、とくに還暦を超えたあたりから揺るぎなく思うことがある。第一に「感情の核心は幼少期に創られる」ということはすでに述べたが、第二に「感情の核心が論理の在り方を定める」。論理の出発点をなす「前提」、論理の構成を決める「枠組」そして論理の発展を促す「方向」、これらは論理それ自体からは出てこない。納得できる前提・枠組・方向だけが選び採られるのだが、納得とは、その人の感情の核心と呼応するということなのである。

 「感情の核心」ではないが、「感覚の核心」という言葉は、じつは、先ほど引用したスラム街遍歴のさいにも用いられていた。
 しかし、続いてこうも書いている。

 第三に「繰り返し想起される記憶は、安定した論理によって再表現される」。記憶の反復が可能となるのは、記憶における物事の起承転結がしっかりした論理で繋がれているからなのだ。忘れえない記憶をじっと振り返れば、生のロジックとでもいうべきものがおのずと浮かび上がってくるということなのである。

 つまり、過去が現在を規定するだけでなく、現在もまた過去を変えるということになるのだろうか。
 『コクリコ坂から』にはじまって、このところ、この時代のことについて、少しふれることが多かった。丸谷才一の『たった一人の反乱』は、その十年後だが、そのちがいはその時間差には還元できないと思う。
 西部邁は「アメリカが精神的に貧しい」というわけだが、それはとりもなおさず、西部自身が物質的に貧しい側に立っていたことを意味している。物質的に貧しいものが、物質的に豊かなものに自己を拮抗しようとすれば、相手を精神的に貧しいとするしかない。
 それが間違っているといいたいのではない。ただ、そうした宿命を引き受けた西部邁という人の生き方に思いを馳せてみるだけである。
 そして、海野治夫という‘半チョッパリ’の生き方に胸を突かれない人もいないだろう。西部邁はこう書いている。

・・・この文章を書いているのも、いつの日かそれを携えて海野の奥さんとお嬢さんに会いにいき、そして「あなたの夫であり父であった人は、私の会ってきた厖大な数の人々のうちで、最も感動に値する人物の一人だったのです」と伝えたいがためなのである。

小倉優子 幸福論

小倉優子 幸福論

 小倉優子のラスト写真集のタイトルが「幸福論」。小倉千加子に同じタイトルの本があるようなので、それに引っかけたのだとしたらしゃれている。
 富山に住んでいる頃の同僚が彼女の(小倉優子の)大ファンだった。
 カメラマンの西田幸樹は定評がある。黒田美礼が今でも世人の記憶に残っているとすれば、彼の写真集のおかげかもしれない。