常設展、トラモンティ、仙がい

knockeye2011-10-13

 ブログの更新が滞るいいわけ。節電の夏が終わり、勤務が元に戻ったが、あとに疲れが残った。
 レオ・ルビンファインの同日、MOMATで見た常設展と、工芸館のグェッリーノ・トラモンティ展の話。
 MOMATの常設展は、パウル・クレーの時も見てるし、そんなに代わり映えしないのは当然だが。ここの常設展の特徴はきっと戦争画だろうな。興味ある方は足を運んでみるとよいかも。
 今回目を引いたのは、小松均と村上華岳
 小松均は、独学に近い人で、画壇の中にいなかったので、注目されていないのかもしれないが、どの絵を見ても力強く鮮烈で、戦後の水墨画ではぬきんでた存在だと思う。
 村上華岳のリリシズムは、画題だけでなく筆触にも貫かれているようで、<武庫の山>、<海鳥暮景之図>などという小品の水墨画を見ても、ただ山と山道を描いているだけでも、他の誰もこんな描き方をしないだろうという、不思議なリズム感がある。
 琴線に触れる小品、そういうものを描き続けた画家という印象は、<日高河清姫図>(先月まで展示されていたらしい)が抱かせるものだろうけれども。
 常設展の感想だから、話がどんどんとりとめなくなるけれど、川端龍子の<草炎>にササヤキグサが描かれていた。ササヤキグサが日本画の画題になるまで千年の年月を要したということなんだろうか。人間の目っていうのはあんがい不確かで、目の前にあるから見えるとは限らないみたいだ。
 特集コーナーに、マックス・ペヒシュタインの版画集「われらの父」というのがあった。
 天にいますわれらの父よ・・・御名があがめられますように・・・御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように・・・。
 キリスト教という宗教については、ジョルジュ・バタイユの『宗教の理論』を紹介したときに少しふれたが、彼らは、農業という産業革命を経験した時、同時に世界という観念を獲得したのだと思う。
 ‘創造主’という概念はキリスト教に特徴的だ。‘創造主’というとなにかしら厳かで宗教的だが、現世的に言い換えれば‘生産者’ということである。世界に生産者がいて、この世界はその生産者の所有物だというのである。
 私には奇妙な考え方に思えるが、彼らが、農耕の獲得とともに、世界を発見したのだとすれば、彼らの世界観が農耕の写し絵になるのは、むしろわかりやすい。‘一粒の麦’とか、‘刈り入れの時’とか、実際、農耕の比喩がなければ、キリスト教が成立するかどうかあやしいと思う。

 グェッリーノ・トラモンティは、イタリアのファエンツァというところ出身の画家、陶芸家。あざやかな青と黄色が目にとびこんでくる。
 裸婦が二点。どちらも美しい。モディリアーニとかキスリングとか、そういった美しさ。絵に描かれた裸婦にしかありえない美しさ。
 モディリアーニも彫刻出身だし、トラモンティの裸婦の美しさも、陶芸という造形感覚がもたらすものなのかもしれない。村上隆が、白磁っていうのは、女の子のお尻なんだといっていた。
 出光美術館で「大雅・蕪村・玉堂と仙がい(この‘がい’の漢字がむずかしい。‘崖’の山がないやつ)」
 仙がいというこの博多のお坊さんの絵は、当時、とにかく好まれたらしく、描いて描いて描きまくったらしい。晩年、わざわざ絶筆塚というのをこさえて、筆を絶とうとしたが、結局、死ぬまで描き続けたそうだ。
 いまでいう‘ヘタウマ’。場合によっては、臭みを感じる絵にもでくわすことがあったが、今回の展示は本来の面目が躍動している。天然ぼけがのりにのっている。
 前にも見た<百寿老画賛>が今回も展示されていた。おおらかな絵。こうした老齢礼賛みたいな態度をもう一度取り戻すべきなんだろう。
 礼賛だけではなくて、老いの戒めとでもいうべき<老人六歌仙画賛>というのもあった。これなどはまったくブログ向き。語呂がいいし、読んでてつい笑ってしまう。興味ある方は検索してみて。
 出光美術館は、眺望もウリなのだけれど、この日はことにお堀の夕日がきれいだった。