柳宗悦、「東京オアシス」

knockeye2011-10-23

 昨日は、半日だけだけれど、ひさしぶりに休日出勤。雨が降っている間だけ仕事をしていたという感じ。午後は、小やみに止んだかとおもった空模様がそのまま保った。
 それで、ジェベル200のオイル交換。バハを盗まれたときに工具もごっそり盗まれたので、14/17のメガネレンチを買っておいた。バハはドライサンプだったので、オイルの計量がこころもとなかったが、ジェベル200は窓から見えるのだからわかりやすい。ただ、850ccしか入らないのは忘れていて、1L缶を二本買ってきていた。ドレンプラグも、ひとつがトラップだとわかっていれば、どちらかと言われれば、補強してある方だろうと察しがつく。オイルフィルターも準備していたが、これはTレンチを手に入れなくては。念のため、シートを外して、エアフィルターの状態を見て、シートを付け直した。シートとタンクの間に隙間があるのが気になっていたが、きちんとはめ直してもやはり隙間が空く。もしかしたら前のオーナーがビッグタンクにしていた名残なのかも知れなかった。ラフ&ロードのハンドルバーパッドは取り去ることにした。
 ほんとは昨日は、古い知り合いが平湯でオフ会をしていたので、出かけたい気持ちもあったが、まだそこまでバイク乗りに復帰していない。
 横浜そごう美術館で、柳宗悦展が開かれている。ことしは没後50年にあたる。
 映画を見にいくついでに立ち寄ったのだし、最初の‘白樺’のころや、ウィリアム・ブレイクのころは、ふむふむといった程度だったが、次の展示室に入ったとたん、思わず息を呑んだ。先週、静嘉堂美術館で見た、朝鮮陶磁に思いがけず再会したからだ。そろばんの珠のかたちをした満月壺、湯たんぽみたいな形をした俵壺、八角形に面取りした白磁の花瓶、一瞬、時間の隙間に落ち込んだかのような、前世の記憶が突然よみがえったような不思議な気持ちになった。
 訪問客が手土産に持参した朝鮮陶磁の小壺に魅了された柳宗悦は、その後、たびたび朝鮮半島に赴くことになる。1921年には、日本で最初の「朝鮮民族美術展」を開催し、その翌年には『朝鮮とその藝術』など、著作によっても朝鮮固有の文化の紹介につとめたそうだ。図録にはさらに

・・・当時植民地であった朝鮮に対する日本政府の施策を批判し、朝鮮の人々を鼓舞し擁護した。ことに「光化門よ、長命なるべきお前の運命が短命に終わろうとしている」の一文で知られる「失われんとする一朝鮮建築のために」(1922年)と題する文章は広く内外の世論を起こし、民族の心の象徴ともいえる王宮の正門である光化門を、日本政府による無謀な破壊から守った。当時の朝鮮の人々は、「光化門」を「朝鮮民族」と置き換えてこの文章を読んだという。

 私は、こういう人が20世紀の日本にもいてくれてよかったと思う。なにか少し救われた気がした。
 権威につながっていないと不安で仕方ない脆弱なナショナリストたちが、美を権威に置き換えてしまうのは必然なのだろう。彼らが、破滅の道を進むべく結託した、欧州のナショナリストも、‘頽廃藝術’などと称して、オットー・ディックスやパウル・クレーの絵画を火にくべた。権威の下に美を屈服させようとした。おそらく彼らは美について何も知らない。彼らの権威が幻想であるように、彼らの美も幻想にすぎない。
 柳宗悦が、その後の民芸運動を通じて、次第に茶に近づいていくことはむしろ当然だと思える。1941年の著書『茶と美』の序に、「美の性質を論じることと、『茶』の精神を説くことは一様である」と記したそうだ。

 横浜に出たお目当ての映画は「東京オアシス」。「かもめ食堂「めがね」のチームの最新作だ。
このチームの作品では「プール」を過去に見て、すごく気に入った。たぶん、ああいう映画を気に入る人をさして、むかしなら‘茶人’といっただろう。
 漏れ聞くところによると、日本の映画はハリウッド映画に比べてわかりにくいという評判だそうだが、ハリウッド映画しかわからないとはお気の毒なことだ。
 以下、「東京オアシス」について書くが、観に行くつもりの人は読まないことをオススメする。別にネタバレみたいなことを書くつもりはないが、そもそも、そういう意味でのネタがあるのかどうかまでふくめて楽しみのひとつだと思うので。























 冒頭、車で走る目線の夜の東京のシーンは、コンビニの看板に灯が入っていないので、すでに東日本大震災以降の東京だとわかる。
 最初の、加瀬亮小林聡美のエピソードは、いきなりMAXの緊張感からスタートする。ぐちゃぐちゃに絡み合った糸のかたまりをいきなり放り投げられたような感じ。
 パンフレットのインタビューによると、加瀬亮
「 これまでのこのチームの映画には、どちらかというと大らかさや柔らかさの方が表に出てきていたと思いますが、今回の一つ目のエピソードにはいつもと違う印象を持ちました。」
といっている。
 どんな映画でも、本来、役者が他者を演じているにもかかわらず、観客は、慣れ親しんだ役者を映画の中に見てしまうものだが、この映画のこの冒頭、すくなくとも私は、小林聡美加瀬亮の中に、見知らぬ他者を感じた。それは、脚本の力だろうと思う。脚本があえて説明しないので、小林聡美加瀬亮が‘誰’あるいは‘何者’を演じているのかわからない。服装や小道具にまで、いわばそういった説明を拒否する工夫がしてある。
 小林聡美が、狂言回しとして、加瀬亮原田知世黒木華のエピソードをつないでいく、ある意味では、よくある展開なのだが、それぞれのエピソードを通じて、小林聡美演じる主人公トウコが理解できるようにはならず、むしろ他者としての輪郭がはっきりするのだ。
 そのあたりのコンセプトはたぶん、もたいまさこが出てくる原田知世とのエピソードの中で表明されている。その表明の仕方もすごく上手いと思った。
 ドラマとしての解決というべきものは最後までない。しかし、最初に投げつけられたぐちゃぐちゃなかたまりが、すーっとほどけていく感じはある。それがこの映画の味で、それはなかなかいい。
 ちなみに、加瀬亮のパートの監督・脚本は中村佳代。原田知世のパートの脚本は白木朋子、監督は松本佳奈。黒木華のパートの脚本・監督が松本佳奈と、三部の脚本が別々に書かれていることも、効果を上げているのだろう。「ニューヨーク、アイラブユー」を思い出したりした。でも、どちらか好きかと言われれば「東京オアシス」の方が好き。
 私に言わせると、こういう映画をおもしろがれなかったり、楽しめなかったりする人は、一体何が楽しいんだろうと疑問に思う。
東京オアシス 東京オアシス 東京オアシス