Occupy Wall St.カダフィを待ちつつ

knockeye2011-11-02

 カナダの69歳の人が、「ウォール街を占拠せよ」と呼びかけて、それが瞬く間に西欧全体に広がり、勢いを増しているといううわさ。
 これは、すくなくとも先進国での情報社会のベースが、すでにマスコミではなく、インターネットに移行していることを示しているだろう。
 たとえば、西松事件をめぐって、マスコミがたたいた小沢一郎を、ネット世論が擁護し、結果的には民主党政権交代を果たしたことひとつをとっても、マスコミからネットへという川筋の変化は、日本においてももはやごまかしようがない。
 あのとき、NHKは、小沢一郎の元公設第一秘書の‘全面自供’という、あからさまな虚報にさえあえて踏み込んだ。事実上、報道機関としての自殺だった。
 マスコミが、あの民主党圧勝を、小沢一郎の‘どぶ板選挙’の勝利だと喧伝したのは、たぶん、ネット世論に敗北したことを認めたくなかったのだろう。しかし、地デジ移行後、NHKの受信契約解約90、000世帯という数字は何を意味しているだろうか。
 もちろん、バラク・オバマの大統領当選は、日本の政権交代に先んじていた。
 アンドルー・サリバンは、ニューズウィークにこう書いている。

 数年前から、人々は従来の政治的枠組みの外で独自の活動を展開するようになった。08年の米大統領選挙では、多くの有権者がネットを通じた呼びかけや少額寄付に応じ、既存の政治プロセスを変え、旧システムの継承者たるヒラリー・クリントンを拒み、オバマホワイトハウスに送り込んだ。

・・・アメリカでは、08年にバラク・オバマを大統領にした「チェンジ」の気運が、連邦議会の党派政治のせいでしぼみかけている。
 莫大な財政赤字を長期にわたって減らしていくには国防費と社会保障費を減らし、税金を上げるしかない。そんなことは誰もが分かっているのに、民主的に選ばれた議員たちは合意できずにいる。

・・・アメリカは実力主義の国であり、階級闘争は似合わない。
 だが国の借金を減らすために、過去30年で最も潤った人たちに重く課税することは階級闘争ではない。・・・

 この‘階級闘争’については、町山智浩が、週刊文春の連載「言霊USA」に書いていた。
 現在、アメリカでは上位1%の富裕層が富の42%を占有し、10%が93%を所有している、一方で、国民の負債総額の73%を下位90%が負担している。オバマ大統領は、4470億ドルの雇用創出プランを提唱し、その財源に金持ちへの増税を打ち出したが、

「これは階級闘争だ!」
 共和党ポール・ライアン下院議員はオバマの富裕層への増税案を、マルクス主義の言葉と結びつけた。アメリカでは人や言葉を社会主義に結びつけるのは今も「お前のカアちゃんデベソ」的な罵倒になる。
(略)
「富裕層への増税階級闘争じゃない。単なる算数だ」オバマは反論し、「26年前の別の大統領の言葉」を引用した。「『バスの運転手はきっちり給料から税金を取られるのに、億万長者は免税されるなんてどうかしている。正さなければ』。誰の言葉かご存じかな?ロナルド・レーガンだ」

 カナダの69歳の人、カレ・ラースン氏がロビンフッド税導入に向けての一斉行動を呼びかけた10月29日、ニューヨークは季節外れの大雪に見舞われた。冷たいみぞれが降るワシントンでも金融機関への増税を訴えるデモが米財務省まで行進した。
 日本の政治家は、政権交代を果たすやいなや、手のひらを返すように公約を反故にしたのだったが、すくなくともバラク・オバマは、まだ、このデモの人たちと同じ方向を向いていると思う。あるいは、まだ同じ方向を向いていると示しうると思う。
 ただ、はたしてこのデモの参加者たち自身が同じ方向を向いているのだろうか?
 アメリカの99%であると同時に世界の1%であるかもしれない、自己分裂を、彼らは心のどこかに持ち続けているに違いない。
 ロビンフッド税と言うが、現代にロビンフッドがいたとしたら、ウォール街のデモの参加者たちは、ロビンフッドに守られるのか、それとも、襲われるのか。ウサマ・ビン・ラディンカダフィが、現代のロビンフッドだったかもしれないじゃないか。
 ‘Tax the Rich!’といいつつ、彼ら自身が、いま、これまでの繁栄のツケを払っているだけかもしれない、という自己分裂。
 そして、自分たちの主張が社会主義的ではないのかというためらい。これらが、このデモをわかりにくくしているのかもしれない。
 実は、先ほどの記事があるニューズウィークの特集は、「カダフィ殺害の禍根」というもの。カダフィを殺すことは正義だったのか?
 ウォール街を占拠している人たちが、これといった主張もなくただ座り続けているのは、彼ら自身の‘カダフィ’を待ち続けているのではないかという、奇妙な考えが頭に浮かんだ。彼らは‘カダフィ’を待ち続けている。そして、自分自身が‘カダフィ’ではないかと内心おそれている。