「エンディングノート」

knockeye2011-11-06

 「エンディングノート」というこの話題の映画については、観に行くべきかどうか迷っている人があるとしたら、私もその人とおそらく同じ理由で迷っていたが、神奈川新聞のレビューを読んで、まあ、観に行くことに決めたわけである。「東京オアシス」と同じ映画館なので、あれを観たときにこのポスターも目にしていて、すでに気にかかってはいたのだ。
 プロデューサーが「歩いても 歩いても」の是枝裕和だということも、そんなあざといことはしないだろうと安心できる材料になった。「エンディングノート」の砂田麻美監督は、是枝裕和のもとで働いていたスタッフなのだ。その出自が「ゆれる」「ディア・ドクター」の西川美和と同じなので、二人の対談が特集された雑誌のページが、映画館に掲示されていた。
 「東京オアシス」もそうだが、西川美和といい、この砂田麻美といい、今、日本の若い女性たちには、こうした作り手の人たちに限らず、なにか‘老成’といったようなものまで感じてしまう。
 娘が父のガン告知からその死までのドキュメンタリーを撮るというとき、このようにペーソスをにじませながら、静かな語り口で撮れるのは、日本にしかありえないのではないかと思ったりした。
 ほぼ日刊イトイ新聞に、是枝裕和糸井重里のこの映画をめぐる対談があるのだけれど、

(是枝監督)・・・いちばん癪にさわるのはね、
お父さんのキャラクターがいいとか、
距離感が絶妙だとかっていうのは
置いとくとして、
例えば作品の後半に行った時に、
突然約束とは違う形で
お兄さんが赤んぼ連れて帰って来るでしょ。
あそこで‥‥
正直言うと、最初観た時に、僕は、
「わぁ、ここがすごく好きだ」と思ったんです。

(略)
 
すごくいいシーンなんです。
でもドキュメンタリーで
ああいうシーンを残す、
そもそも、撮れるっていうのは‥‥、
普通ね、あそこは撮っても
(編集で)落としてくるような
気がするんですよ。

(略)

糸井重里)・・・で、親父は、自分の死期が近いこと、
よっぽど緊急だから帰って来たって知ってるけど、
それは言葉では絶対言わない。
で、お兄さん夫婦も言わない。
で、“言わない会話”が始まるわけだけど、
同時に、“本当の会話”も始まってて、
二重の会話があそこでひっきりなしに
やり取りされてるわけですよね。

(略)

それを家族としてずっと見てて、
映画に撮ってるって、
‥‥できるやつはいないよねぇ。

 この対談は面白いから全文を読んでもらえばよいのだけれど、映画を観てからにしましょうと、老婆心ながらひとこと忠告。 

 この二人が声をそろえる‘大人の作品’を、若い女性が撮ってしまうというのは、ある意味では、今の日本の女性たちが映画を作るとしたら、こうした大人の作品しか撮れないのだと思う。
 テレビや雑誌が垂れ流し続けるウソの洪水を、ウソと知りつつ楽しんできた彼女らは、ある意味ではものごころついたときから大人だったといえるのではないか。「エンディングノート」のなかでも、砂田麻美監督がまだ中学生のころにカメラを回した両親の夫婦げんかが使われている。その中でさえ、この映画を貫いている、ある距離感、諦念、センスが感じられる。それは今の若い世代がベースとして持っている感性なのかもしれない。
 マンガに、エッセーマンガというジャンルがあるけれど、それに似ている感性だと思った。まちがっても劇画ではない。
 同じく近親者の死を扱ったドキュメンタリーで、この‘大人の作品’の対極にあるのが、「監督失格」だろう。あの作品に拒否感を感じる人がいるとしたら、その子どもっぽい独善ぶりかと思う。しかし、子どもっぽいのは監督であって、林由美香は、その生い立ちを思えば、じゅうぶんに大人だったし、むしろ、彼女が抱えていたのは、早く大人になりすぎたための孤独だった。子どもになれない女たち、大人になれない男たち。
 このブログに今までいろいろ書いてきた流れで、高度成長へのレクイエムともとれるのだけれど、それはバカげてるので止すことにしよう。
 今年は、上にあげたふたつのほかにも、「Peace」もよかったし、よいドキュメンタリー映画に巡り会った年だった。
映画『Peace 』公式HP 映画『Peace 』公式HP 映画『Peace 』公式HP このエントリーをはてなブックマークに追加