「東京オアシス」 おもっきしネタバレ編

 「東京オアシス」は、あちこちでひっどいこと書かれているんだけど、要するにこれは、人気シリーズが新しいテーマに取り組む困難さを物語っているだろう。
 具体的に言えば、「水戸黄門」や「男はつらいよ」と同じで、フーテンの寅以外の役をやると、ファンが舌打ちするというようなことでは、渥美清にとって「男はつらいよ」のファンってどういう存在だったのだろうか。
 私は、「めがね」や「カモメ食堂」のファンではない、通りすがりなので、「東京オアシス」は、ほんとにスリリングだったし、心から楽しめた。 
 古いファンを裏切っていかないと前に進めないのだし、居心地のいい取り巻き連中に囲まれて、ぶくぶくと太ったエルビス・プレスリーのような生き方は、選ばない方がいいと思う。
 ただ、私が面白かったからといって、他の人も面白いはずだと主張するつもりもない。「めがね」のファンがその映画を楽しんだように、私も「東京オアシス」を楽しんだというだけ。
 「東京オアシス」の冒頭は、原発事故で明かりの消えた東京の街を延々と流していく車窓の眺め。もしこれを退屈だというなら、「私は退屈だ」という台詞を役者が言ったら、その映画が退屈だということになってしまう。
 あの延々と続く単調なシーンがあるからこそ、加瀬亮小林聡美のファーストコンタクトのインパクトが引き立つ。
 加瀬亮目線の‘喪服の女がダンプに飛び込もうとした’という一次情報は、暗い東京の街と無意識下でつながっている。
 ファーストコンタクトの瞬間が観客には隠されていることが、その後に続く緊張感の要になっている。
 加瀬亮は、‘小林聡美がダンプに飛び込もうとした’と主張するのだが、小林聡美は、‘加瀬亮が回転レシーブをした’と主張する。これほどちぐはぐなすれ違いもない。
 そして、お互いがお互いの解釈を否定しあう。観客もその瞬間を見ていないので、どちらがほんとなのか判断できない。その後に続く車内の会話も、みごとにすれ違い続ける。そのすれ違いかたが実にスリリングだった。
 小林聡美は、‘自分は女優だ’と言う。加瀬亮は信じない。その時点では、それがほんとかどうか観客にも分からない。それは、加瀬亮が‘自分は結婚詐欺師だ’というのと同じ信憑性しかない。
 このシナリオはどちらの登場人物にも感情移入できない状況に観客をとどめておく。
 高速のサービスエリアで並んできつねうどんを食べるシーンで、加瀬亮は、‘あれはダンプに飛び込もうとしたのではなく、Aクイックだった’と一次情報を修正する。そして、夜明けの海のシーンで加瀬亮小林聡美の和解は成立する。
 ただ、このシナリオが優秀なのは、これが映画の第1話目に置かれていることで、これが、いわば‘序’にすぎないと観客は知っている。つまり、観客は加瀬亮ほどには釈然としないまま、2話目へと緊張感を持続する。
 2話目で、小林聡美が‘ほんとに’女優だと判る。しかし、だとしたら、およそ小林聡美らしくない女優で、現場をバックれる、映画館で寝てる。
 映画館で迷子になるおばあさんをもたいまさこが演じているが、ひとことも台詞がないのに、ある意味ではいちばんおいしい。
 原田知世が言う。「あのおばあさん、隣の人がいなくなったっていうんですけど、ほんとは、初めからそんな人いなかったんじゃないかって思うんです。」
 この台詞で小林聡美演じるトウコ(という名前もここではじめてわかる)が、加瀬亮のことを思い浮かべていないはずがない。1話目で、延々と横並びに座って台詞を交わしていたことがここで生きている。
 3話目は動物園のシーン。
 ここでトウコが出会う女の子との会話の中で、‘こどものころ動物園でわざと迷子になってみた’というトウコの話の中に、1話目のファーストシーンの動機が語られている。
 しかし、それは観客にしかわからない。会話の相手の女の子にはわからない。
 こんな風に、常に記憶のフィルムを逆回転させながら物語が進んでいくことで、映画全体は、トウコの最初の登場シーン(くりかえしになるが、それはカメラにおさめられていない)の謎にずっと引っ張られた緊張感を維持し続ける。
 そして、その謎が最後に解けたのかというとそうではない。なぜ、このトウコという女優が、撮影現場から抜け出してヒッチハイクしていたのかは分からないままだ。それは、飛び込み自殺をする人の気持ちが、他人には本当には分からないのと同じなのだ。
 ‘分かる’ということは、言い換えれば、‘彼ら’を‘私たち’に変質させることである。ほんとうは分かっていないのに、出来合いの物語をあてはめて、わかったことにして、‘私たち’の仲間をふやしたいだけなのだ。
 それは、「めがね」や「カモメ食堂」の映画チームは‘こういう映画を作るべき’という決め込みと共通している。
 ‘彼ら’と‘私たち’という二元論で世界を観ていてるかぎり、その世界には自己増殖しかない。隣にいる人の顔をもう一度見つめてみると、他人の顔が見えてくるかもしれないし、それが他者を受け入れることなのかもしれない。