いろいろな名残

 日本のマスコミは「occupy Wall st.」のデモを、「反格差社会デモ」と名付けてしまったが、あのデモの参加者や呼びかけ人がそう名乗ったのだろうか?日本語で?
 この国のマスコミは、客観的な事実と、その事実についての主観を区別することができないか、あるいは、意図的に混同しているのか。いずれにせよ、それによって事実が歪曲されるし、それが意図的である場合は、捏造といわれてしかるべきだろう。
 こういう一連の作業を‘マスコミによる情報操作’といわなければ、この言葉の使い途がない。
 問題は、こうした情報操作によって、肝心な事実を見落としてしまうことだ。
 マスコミ(あるいは今では‘マスゴミ’と呼ぶべきなのかもしれないが)は、日本だけに限らないのかもしれないが、‘右か左か’、‘善か悪か’、‘新自由主義社会主義か’というふうに、エンドtoエンドに飛び移る。このことには、さきおとといに紹介したチェーホフの批判が、そのままあてはまるだろう。
 真の智者は、あるいは、真の理性は、この両極端の間にひろがる、気の遠くなるような荒野を踏破する。
 親鸞聖人の言葉でいえば、「悉く能く有無の見を摧破する」。
 以上は、過去2日分の記事を読みかえしてみて、心に浮かんだこと。
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 clubBBQの転送メールが有料になった。正直言って、よくぞ今まで無料で頑張ったものだと思う。まちがいなく10年以上使っている。度重なる引っ越しにかかわらず、同じメールアドレスで通せたのもclubBBQがあってこそだった。
 たしかに無料の方がうれしいには違いないけれど、今の時代、適正な価格ではないかと思う。
 考えてみれば、マイクロソフトインターネットエクスプローラーを無料で配布するという暴挙に出て以来、インターネットのサービスの多くが無料を基準とすることになってしまった。
 わたしがインターネットの世界にふれはじめたころは、ネットスケープナビゲーターを‘買わなきゃな’と、ふつうに思っていた。
 この無料配布というビジネスモデル(?)の功罪については、考えてみると現在の状況に、深く広く影響の根を張っているように思う。
 たとえば、iPhoneは、アップルがソフトとハードを一体で売っているので、一機あたりの利益率が非常に高い。グーグルのアンドロイドは、もし熾烈なシェア争いに勝利したとしても、利益で勝利するにはとうてい及ばないそうである。
 有料がベースのインターネットの世界と、無料がベースのインターネットの世界とでは、パラレルワールドほどのちがいがあったかもしれない。
 インターネットのベースが無料でなければ、エジプトの革命は起きなかったかもしれない。が、その一方で、革命の後、混迷のなかで立ち尽くすといった事態にもならなかったのかもしれない。
‘たら、れば’を言ってもしかたないわけだけれど、‘無料が当然’という思い込み(いうまでもなく、当然ではないのだし、実のところは、無料ですらない)が、今という時代の一般的な人々の、それは移ろいやすい気持ちの在り方に、影響をおよぼしたという気がしている。
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 日曜日に観た「エンディングノート」のことを先に書いてしまったので、土曜日のことをまだ書いていない。
 土曜日には、渋谷のSEIBUでやっていた「TARO・LOVE」という、岡本太郎トリビュートみたいなのを観に行った。ミヅマアートギャラリーの作家たちの作品がほとんどのようだった。
 ミヅマアートギャララリーへは、一度訪ねたことがあるのだけれど、まるで、テレビの探偵事務所みたいな雑居ビルの一室だった。
 ネオテニー・ジャパンのインパクトが強くて、なかなかあれを越えるほどの展覧会には出会えないな。それに、後から気づいたのだけれど、展示作品がほかの階にもいろいろあったみたいだけど、それは見逃してしまった。

 そのあと、東京都現代美術館で「建築、アートがつくりだす新しい環境 ー これからの感じ」。
 今年、東日本大震災と福島の原発事故を経験したことで、私たちの生活環境は、遅かれ早かれ、大きな変容にさらされずにはおれないと思っている。
 森美術館で開催されている「メタボリズムの未来都市展 − 戦後日本・今甦る復興の夢とビジョン」も、そうした背景で企画された展覧会だと思う。
 メタボリズムはそもそも新陳代謝を意味する生物学用語だ。福岡伸一が生物学者の立場から、これについてひとこと指摘していた。週刊文春の連載。

・・・西洋文明が具現化してきた頑丈で恒久的な建築ではなく、生物のように変化し、成長し、増殖しつづける建築を目指そう。そしてひいては都市像を立案しよう。そんな斬新な運動だった。

 しかし、福岡伸一の目でみると、新陳代謝する次元、メタボリズムする単位に明らかな錯誤があると見えるそうだ。

 生命体は、ビルの直方体カプセルを取り換えるようなマクロな次元では新陳代謝していない。個々の細胞ですら交換の基本単位となっていない。それよりもはるかに下位の次元で、ミクロな分子の粒のレベルで絶え間ない分解と合成を繰り返している。

 だから、本来の意味でのメタボリズムでは、細胞のレベル以上では変化が目に見えない。まあ、もちろん、これは生物学本来のメタボリズムで、建築運動としてのメタボリズムにそのままあてはめてもしかたないのだが、ただ、これを読んで考えたのは、あのときも思ったことだが、増殖を統合する思想が、あの運動には、脆弱だったとは言えるのではないかと思う。東京の現状は、がん細胞のような無軌道な増殖にさらされたとも見える。 
 '70年の大阪万博を頂点とするメタボリズムとちがって、今回の東京都現代美術館の展示するこれからの建築は、建築の環境への負荷や、情報技術や交通機関の発達がもたらした仮想的な空間意識をも係数に取り込まざるえないのは当然だ。
 カタログに寄せられた原広司の文章には、あくまで私の理解力の及ぶ範囲でだが、空間が均質であり、仮想のファイル上に引かれた設計図が、それを入れる容積さえあれば、どこででもいくらでも再現可能だとする安易な仮説は、それがいかに資本主義に都合がよくとも、建築の未来を指し示してはいないという意味のことが書いてあった。
 建築を、近代的な大量生産を支える労働者の、衣食住に便宜を図るいれものとしてではなく、その場が受け継いできた歴史と人が交接することで、お互いの情報を書き換えあう行為であるととらえてもいいのではないかと思う。そうとらえれば、建築の次元での変化は、都市全体にとってのメタボリズムだといえるかもしれない。
 しかし、展示自体は、なかなか多様で一筋縄ではいかない。
 面白かったのは、アントン・ガルシア=アブリルという人の<トリュフ>という・・・あれは部屋?、家?、積んだ干し草をコンクリートで固めたあと、氷を切り出すように面をとって、干し草を露出させた後、その干し草を牛に食わせて、そのあとの空間を部屋にするという、ややこしい代物なのだけれど、その窓(?)から見下ろすスペインの海を見ていると、ちょっといいなと思った。
 でも、今回いちばん印象に残ったのは、フィオナ・タンというひとの映像作品。国際的な芸術祭みたいなのが行われている犬島という島の、それとは無関係な一般住民のくらしを記録している、かなり長めの映像作品で、かなり長く見ていた。途中できりあげたけど、ちょっと後悔している。
 すこし晩くなったけれど、帰りに根津美術館に立ち寄った。
「春日の風景」の最終週だったけれど、なにも東京で奈良の風景を見なくてもよいので、そちらはさらっと見たあと、お茶道具の方へ。「名残の茶」となっていた。侘び寂びをいうお茶の中でもとくに侘びたしつらえになっていた。
 今年は、この国の歴史にとって、ひどい一年だった。
 備前瓢形振出の傾いだ口が、うつむいて思案に暮れているようだった。
 厚木で季節外れの花火が上がっていた。今年は夏自粛したので、いまごろ鮎祭りらしい。どちらかというと落ち鮎にももう間に合わないか。花火の上がる頃、あいにくの雨になった。