この映画の原作、2003年のマイケル・ルイスの著作「マネーボール」の原題は「The Art of Winning an Unfair Game(フェアじゃないゲームに勝つ技術)」だ。
しかし、この映画の魅力は、貧乏なチームが金持ちチームを打ち負かす‘階級闘争’にあるのではなく、既存の価値観で否定された者たちが、もう一度自分たちの価値を認めさせようとするプロテストにある。
自分たちの価値を自分たちの努力によって認めさせる、アメリカという移民の国が、健全であるために保ちつづけてきた闘い方が、21世紀のいまも、ここにまた生きつづけていることが、きっとかの国の人たちを勇気づけていると思う。
ビリー・ビーンのチーム作り同様、ブラッド・ピットのこの映画作りも困難を極めたらしい。4年の歳月、ベネット・ミラーがこの映画を完成させるまでに、二人の監督がかかわり、途中で頓挫させている。
なにしろ、原作者のマイケル・ルイス自身、
「一体どうやって映画化するんだろうと思っていた」
というとおり、原作はむしろビジネス書として読まれているくらいで、かならずしも映画向きではなかった。
「だからベネットと脚本家チームが不可能を可能にしたことは僕にとって非常にうれしい驚きだった。」
ブラッド・ピットは、この映画のテーマについて
「この映画は、僕らの価値観、成功をどう定義すべきかを問いかけ、静かでパーソナルな勝利を価値あるものとしている。新聞の見出しを飾るような勝利や、トロフィーが与えられる勝利ではかならずしもないが、・・・」
またピットは、
「典型的な‘弱者のストーリー’だ」
といい、ビリー・ビーンや、ピーター・ブランド(の方は複数の人物をモデルにした架空の存在)が、互角に戦い、生き残るために、体制に戦いを挑み、すべてを一から見直し、新しい知識を模索する、そうしたすべてのことを、
「ある種の正義を見つけるため」
とも語っている。
ここで使われている‘正義’という言葉の実効性に注目したい。‘正義’という言葉が、かろうじて(かどうかは知らないが)言葉としてまだ生きている。私たちの国ではもう死んでいる。私たちの国ではその言葉を卑しい意味で使いすぎたので、今では‘正義’を言葉にするのは、嘘つきか、さもなくばギャグなのだ。
結局、正義を全うするという場合、この映画のように、勝利と敗北が高い次元でせめぎ合う。負けているようで勝っている、勝っているようで負けている、というような、不思議な感覚は、きっとそう多くの人が経験するものではないだろう。
このところ気に入っているチェーホフの言葉でいえば(またかよ!)、勝利と敗北のあいだに横たわっている気の遠くなるような荒野を、その人は踏破したからだ。
ラストに近く、ジョナ・ヒル演じるピーター・ブランドとブラッド・ピットのビリー・ビーンが交わすやりとりは、これ以上ないほど静かでひそやかな勝利のシーンだ。
映画のパンフレットにこうあった。
「・・・原作の出版から8年が経ち、ビーンは49歳になった。今春、肩の手術を受けた影響で‘椅子'を放り投げるのが難しくなったという、ビリーを知る者には少し寂しくさえ感じられる報道があった。」