「ウインターズ・ボーン」

knockeye2011-12-03

映画『ウィンターズ・ボーン』公式サイト │10月29日(土)、TOHOシネマズ シャンテ他全国ロードショー 映画『ウィンターズ・ボーン』公式サイト │10月29日(土)、TOHOシネマズ シャンテ他全国ロードショー 映画『ウィンターズ・ボーン』公式サイト │10月29日(土)、TOHOシネマズ シャンテ他全国ロードショー このエントリーをはてなブックマークに追加 
「ウインターズ・ボーン」という題名を、「冬の骨」と直訳していけない意味が何かあるのだろうかといぶかしく思ったが、パンフレットを読むと、ここでの‘bone’は‘ちょっとした贈り物’を意味するスラングだそうだ(ワンこがおこぼれにあずかった感じ)。なので、日本語に訳してしまうと、そのダブルミーニングが失われてしまう。
 サンダンス映画祭は信用できる映画祭だと思っている。この映画は、サンダンス映画祭で、グランプリと脚本賞を受賞。のみならず、その他の各国の映画祭でも、139部門にノミネートされ、46部門で受賞している。ポスターにずらりと並んだ受賞歴はまさに圧巻だ。
 ハリウッド映画が先細りしていくのは、それが象徴する、世界の中心としてのアメリカというヴァーチャルリアリティーが、破綻し始めているからだろうと、こうしたすぐれたインディペンデント作品が、それとは対照的に、宿命と掟に縛られたリアルな土地としてのアメリカの手触りを、しっかりと手渡してくれるのに出会うと、改めて実感する。
 過酷な宿命をサバイブしていく少女の姿は、まるで「もののけ姫」のようだ。
 しかし、この映画のような暮らしが、架空の事なのかといえばそうではなく、南ミズーリヒルビリーと呼ばれる人たちは、いまでもほとんどこの映画と同じ暮らし方をしている。監督・脚本のデブラ・グラニックのインタビューによると、原作の一家ののような家族を捜すことからはじめ、衣装部は地元の人たちと服を交換したそうだ。登場人物が着ているのは、地元の人たちが着古した服だということになる。

・・・誰かにこう言われたことがある。
「大きな歩みを踏み出し、高見に到達する人が現れる人生もある。でも、それ以外の人生は、1センチでも前進するために決意し、努力した量に比例する」
と。
 努力、障害、再挑戦の繰り返し。私はそういう人生を記録に残し、描きたいと思っているの。

 トルストイの『アンナ・カレーニナ』の、たぶん有名な冒頭の言葉は、
「幸せな家庭はどれも似たようなものだが、不幸せな家庭はそれぞれに違う」
だが、トルストイはこの警句をどういう意味で書いただろうか。トルストイのその後の人生、とか、トルトスイズムに導かれたかもしれない、ソビエト社会主義の行方とかいったことまで、少し考えさせられてしまう。
 実際には、「不幸せな家庭がそれぞれに違うように、幸せな家庭もそれぞれに違う」だろうし、私はむしろ、「不幸せな家庭はどれも似たようなものだが、幸せな家庭はそれぞれに違う」と思う。なぜなら「幸せな家庭はどれも似たようなものだ」という思いこそが、不幸せな家庭を生む。不幸せな人たちは、どんな状況におかれても、誰かをうらやみ、不平を唱えている。自分たち自身の幸せを見つけなければならないのに、ありもしない「フツーの幸せ」が、自分たちにないといって嘆いている。
 あの警句が、カレーニンが二日酔いの頭で考えたものだとすれば、あの冒頭の警句自体に、すでに悲劇が隠れていたと言っていいだろう。
 ‘Occupy the Wall St.’のデモが起きてから、ずっと同じようなことを書いているかもしれない。
 あのデモにはふたつの面があるように見える。
 ひとつは、‘Tax the Rich’という、課税と再分配の公平をもとめる、建設的な主張だ。
 しかし、もう片方で、‘We are 99%’という事実上何を言っているのか分からない主張(と呼べるとすればだが)がある。
 私はこれには、日本で一時期猛威をふるった‘格差社会論’と同じ性質のものを感じる。
 しつこいようだが、格差のない社会なんてない、だから、‘格差社会’なんてない。
 ‘格差社会’を口にする人たちはいう。
「わたしたちはフツーの生き方をしたいだけ。フツーの仕事が欲しいだけ。」
 この言葉の裏側には
「高望みはしていない。だから努力しなくても手に入るはずなのに、それが手に入らないのは誰かさんのせいだ」
という思いがすけて見える。
「フツーの暮らしをするために努力するのはおかしい。だから私たちは努力しない。公園に泊まり込む。誰か何とかしろ。」
 フツーという幻想が格差という幻想を生む。
 本来、この世に同じものなんてひとつもない。なのに、‘フツー’という幻想は、すべてを同じ価値観にあてはめてしまう。‘99%’とは‘フツー’ということだ。
「私たちはフツーだ。フツーの私たちが不幸なのはおかしい。」
 しかし、私にいわせれば、あなたたちは上のような意味で‘フツー’ではないし、その意味で不幸でもない。逆に、自分たちが‘フツー’だという思いこそがあなたたちを不幸にしている。
 私も旅の途中に公園にテントを張って寝たことはある。けっこう楽しい。しかし、自分を99%だと思ったことはない。つまんないから。