「不惑のアダージョ」

 
 ユーロスペースで「不惑アダージョ」。
 海外の映画祭で公開されるときは‘Autumn Adagio’というタイトルになっているようだ。‘秋のアダージョ’は、ふと、アニータ・ブルックナーの『秋のホテル』を連想させるが、あちらの原題は‘Hotel du Lac’で、秋という言葉はでてこない。
 少し寝坊して、13:10の回にいったら、上映後に30分のトークショーが付いていて、この映画を撮った井上都紀監督が、ゲストに「エンディングノート」の砂田麻美監督を迎えて、この映画の感想や、女性が映画監督をする難しさなどについて、なかなか興味深い話を聞くことができ、得した気がする。
 砂田さんは、この対談がセッティングされる前から、この映画をぜひ見たいと思っていたそうで、それは、ポスターに使われている、主演の柴草玲が修道女の姿でうつむいている横顔に惹かれたからだと言っていた。
「みなさんはどうですか?」
と、尋ねられたのだけれど、たしかにそうかもしれない。まだ記憶に新しい須賀敦子の『遠い朝の本たち』に描かれている彼女の幼なじみ‘しいべ’という修道女の印象が鮮烈だったということもある。
 なので、冒頭、主人公の描かれ方が、すこし暗すぎるかなと懸念したけれど、銀杏の葉の散り敷いた公園でたおれるシーンで、更年期障害だとわかって納得できたが、そのあたりの違和感はラストシーンまで、実は残っていた。ラストシーンではっとさせられたけれど。
 自分で選んだ生き方であっても、肉体と年齢の限界で、母になる選択は閉ざされてしまう、そのときに、はたして女性の心は揺れないものだろうかということを表現するのに、一般の職業よりも修道女のほうが振り幅が大きいのではないかと思った、みたいなことを井上都紀監督は言っていた。
 テーマが修道女にあるわけではないので、主人公はただの幼稚園の先生でもありえたかもしれない。たとえば、「いつか読書する日」のような描き方も可能だったかもしれない。教会というよりどころがないと孤独感は増すだろうが、しかし、それだと、主人公が自分に課している規範の重さが失われる。
 たぶん、この映画にとって必要にされたのは、‘自分で選択した’、‘自分で自分に課した’という重みの大きさだったと思う。この映画には、「愛する人」のような母と娘の物語が巧妙に隠されている。
 修道女の規範の生き方と、形式美に肉体を押し込めていくバレエという井上都紀監督の配置は考え抜かれていると思う。ベルニーニの『聖テレサの法悦』のような、性の昇華をそこに読むこともできる。全編に流れる柴草玲の音楽もステキだった。
 ただ、ストーカー男性とバレエダンサーの描かれ方は、すこし図式的すぎたかもしれない。むしろ、ストーキングされている女性の視点を入れた方がふたつの関係の対比がわかりやすかったのかも。でも、これは、男性の観点なのかもしれない。
 井上都紀監督は、仕事をしながら自主制作で映画を作り続けてきたそうで、対談では、女性の映画監督は大変、みたいなことを言っていたけれど、男性の映画監督でも特に恵まれているとは言えないと聞いているし、その努力には正直あたまが下がる。ようやく道が拓けたと言っていた。心から門出を祝いたい。