「不惑のアダージョ」辛口編

 ‘辛口編’というほどのこともないのだけれど、主人公が‘なぜ修道女なのか?’という点について、好意的になりうるか否かで、この映画に対する評価はずいぶん変わるだろうということを言いたいだけ。
 この映画は、修道女の日常を丹念に描いてはいない。作家の関心がそこにないのは明らかで、修道女は記号として、作家の自己投影の対象に選ばれているだけに見える。映画を見ている間、そのことが、このハードボイルドな修道女にまとわりつく謎でありつづけたのだけれど、ラストでそれはどうでもよくなってしまった。
 最後に一人の女性の個性に辿り着けるのであれば、途中のややこしい道順のことは水に流してもいいかなと私は思う。
 それはそれとして、宗教的な側面は、もう少し掘り下げられたかもなという思いはある。単なるお節介なのかもしれないが。
 たとえば、先にも書いたが、‘聖テレサの法悦’。聖テレサは、ある夜、天使が舞い降りて金の矢で、心臓から内蔵までを貫いてそして、その矢を引き抜くときに、内蔵ごと持っていかれるような激しい痛みと法悦におそわれた。
 また、拷問で両乳房を切り落とされた聖アガタの、いかにもまわりくどい殉教の伝説を生き長らえさせているのは、抑圧された性愛であるだろう。
 この映画は、母と子が上手く描かれているのに比べると、性の抑圧の方は少しぎくしゃくしているように思った。
 バレエダンサー × 修道女 、女子高生 × ストーカーのふたつの対立軸が上手く絡み合っていない。
 母 × 修道女、 母 × 植木屋さんの方がうまくいっているので惜しまれる気がした。