- 作者: 塩野七生
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2011/12/01
- メディア: 単行本
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その辺にいくらもある正義のひとつだけ拾い上げて、唯一無二のように振りかざす人間は滑稽だし、うっとうしい。そして、厄介なことに、そのうえ際限なく残酷になりうる。‘正義’=justiceという感覚は、‘不正義’(この言葉を聞くと私は鳩山邦夫を思い出す)=injusticeに対して、unfairであることを許容するからだ。
なぜ、上の塩野七生の言葉を思い出していたかというと、先日、町山智浩がスゥエーデン・モデルについて書いたコラムに、
「アメリカン・ドリームはスウェーデン・モデルに敗北した」
という一節があり、それを読んだ当座は「なるほど」と膝を打ったり額を叩いたりして納得したのだったが、あとで思い返してみると、ちょっと疑問が湧いてきたのだった。
アメリカの人たちは、ほんとうにアメリカンドリームを捨て去っているだろうか?むしろ、アメリカが失ったものはフェアプレーの精神ではないのか。‘Occupy the Wall st.’のデモが求めているものも、競争がフェアであることだと思うのだ。自由な競争を厭うアメリカ人はいないだろう。問題は、その競争がアンフェアになっていることではないか。
アメリカ人はそもそもフェアプレーを重んじる人たちだったはずだが、いつのころからか、アンフェアであることを自分たちに許し始めた。それは、米ソ冷戦に勝利し、日本経済が失墜したあと、我が世の春を謳歌し始めた頃なのかもしれないし、遅くとも9.11の同時多発テロのころには、イラクやアフガニスタンに正当性の疑わしい戦争を仕掛けるほどには傲りたかぶっていた。
結局、あれは、ジョージ・W・ブッシュにとっても、ウサマ・ビン・ラディンにとっても‘聖戦’だったなと思ったところで、塩野七生のインタビューのことを思い出したのだった。
‘justice’は、‘fairness’の下位に置かれるべきだと思う。
フェアであるかぎり、競争社会はむしろ住みやすい。渡辺美樹が言っていたように「競争のない社会こそ格差社会ではないのか」
ひとりのスティーブ・ジョブズ、ひとりの本田宗一郎、ひとりの井深大の背後に数知れない敗者たちがいる。だが、敗者であることが不幸だろうか。私にはそうは思えないのだけれど。
結局、いま私自身が糊口をしのいでいる職にしても、トヨタやホンダの存在抜きには考えられない。日本人の多くの労働者がひとりの本田宗一郎、ひとりの豊田佐吉の余沢にあずかっているし、それは、彼らの背後にいる敗者たちの恩恵だともいえないだろうか。
負けることがそんなにイヤだろうか?戦わないことの方がずっと虚しいと思うけれど。これだけは言えるのではないか。アンフェアに勝つことは、フェアに負けることに比べて、必ずしも幸福ではない。
それは、記者に靴を投げられるシーンしか記憶にない、ジョージ・W・ブッシュが証明している。