抗議する顔、顔のない抗議

knockeye2011-12-30

 ニューズウィークに載っていた「変わる世界、変われない日本」という記事は、辛辣なというか、自嘲的なというか、いずれにせよ心に引っかかるものだった。
 遅くともバブルがはじけたころから、あるいは、それよりももっと早い頃から、この国は変わらなければならないと言い続けてきた。ここでまたそれをくり返すのは、このようなブログの記事ででさえ、さすがに陳腐にすぎ、読むにも退屈だろうし、書く方としても意気阻喪することはなはだしい。
 たとえば、八ッ場ダムの件。
 おそらく、こう書いただけで、多くの人がうんざりするだろう。
 なんとかいう国交大臣は、「苦渋の決断」という言葉を使った。おそらく史上もっとも軽い「苦渋の決断」だろう。今後、この国の政治家が、この言葉の適用範囲をどこまで広げるか、言語学者たちにとっては頭痛の種だろう、「安易な妥協」と「苦渋の決断」の境界線をどこにもうけるか。
 八ッ場ダムは、39年体制の、55年体制の、あるいは田中政治の、あるいは政官財癒着の、それこそありとあらゆる既得権益の、ありとあらゆる欺瞞の、戯画でなければ茶番にすぎない。こんなものを「苦渋の決断」と呼ぶ政治家に対しては、私たちこそ決断すべきではないのか。
 政権交代してさえ政治が変わらないなら、国民が行使すべきは暴力しかない。機能しない政治は壊すしかない。日本人は政治家や官僚を甘やかしすぎている。
 暴力は、民衆が政治を変えるもっとも確実な手段であることを歴史が教えている。
 リビア人がカダフィに下した決断を、日本人がこの国の政治家にくだして、なぜ悪いのか。
 TIME誌の趣味の悪い企画、今年の‘パーソン・オブ・ザ・イヤー’は‘抗議者’だそうだが、たちの悪い冗談だ。
 世界のあちこちで起きている抗議活動のすべてを‘抗議者’のひとことでくくってしまうことで、問題の本質が見失われてしまう。
 顔のみえない対象を今年の顔に選んで、‘抗議者’という呼称を冠してしまう、その行為に、ジャーナリズムの、おそらくは無意識の世論操作がある。それこそ、大前研一が「高見の見物の大衆迎合」と呼んだ、ジャーナリズムの怠慢、安易な‘大衆の美化’、空想的社会主義にすらならない社会主義の戯画である。
 新聞の記事に「日本ではこうした抗議は盛り上がらない・・・」云々のことが、いかにも批判的に書いてあった。しかし、私に言わせれば、それは、‘マスゴミ’と言われて久しい日本のマスコミが、目の前の‘抗議する顔’を避け、自分たちの空想に都合のよい‘顔のない抗議’を探し求めているからにすぎない。
 この国のマスコミは、郵政選挙の結果をポピュリズムだといい、政権交代の選挙結果を小沢一郎のどぶ板選挙だといい、橋下徹大阪都構想ハシズムだといい、あまつさえ父親がやくざだとかくだらない妨害工作さえする。
 しかし、これらの一連の選挙結果で国民が一貫して示しているのは、官僚主義に対する抗議であることは火を見るよりも明らかだ。ただ、官僚べったりのこの国のマスコミが、それを抗議だと認めたくないだけである。なぜなら、その抗議の矛先は、マスコミ自身にも向けられていることを彼らも十分知っているからだろう。