- 作者: 伊藤計劃
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2010/02/10
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伊藤計劃の『虐殺器官』。
しかし、その話の前に、池田信夫のブログに
「モラルハザードと勤勉革命」
という一節があり、けっこう反響を呼んでいる様子。
上のリンクから、全文を読んでもらえればよいが、いつものように、ちょっとかいつまんでみると
なぜ村社会ではこうした長時間労働が起こるのだろうか。
・・・
これを速水融氏は勤勉革命(industrious revolution)と呼んでいる。
農民が土地にしばりつけられ、農地の拡大の余地の乏しかった江戸時代には、与えられた農地で長時間労働することが唯一の生産性向上の手段だった。
・・・
農民が死ぬまで一緒に暮らさざるをえない村社会では、怠け者は村八分にされる。つまり労働の固定性が、モラルハザードを防止して勤勉革命を実現する上で有効だったのである。
・・・
このような勤勉革命が300年ぐらい続いたことから、日本人の感情には労働奉仕を求める偏狭な利他主義が深く埋め込まれていると思われる。
上の引用中の‘勤勉革命’と‘偏狭な利他主義’からリンクを辿ると更に考えさせられる。
それから、このまえ、‘消費税’について、あれこれリンクを辿りながら、色々な記事を読む中に、「消費税増税は小泉政権がお膳立てしていた」・・・云々の記事があった。
小泉政権後、何回選挙があり、政権が替わっただろうか?
さすがに、民主主義国家の主権者として、あまりにも無責任な言いようではないかと思ったし、また一方で、こういう小泉バッシングをする人たちは、どういうわけで、そこまで強大な(ほとんど魔力とでもいえそうな)権力を、小泉純一郎個人が持っていたとして、論理を組み立てるのだろうかと不思議に思いもした。
よほどひどい記憶力でなければ、実際には、郵政民営化の実現にすら四苦八苦だったし、現に、今でさえ、事実上実現していないのである。にもかかわらず、野田政権の消費税増税にまでその力が及んでいたとする、その論理の不均衡さに、私の感受性は、なにか病的なものを感じてしまう。
バッシングということでいうと、日経WEBに、元日本郵政社長の西川善文氏のブログがあるが、2月23日は、例の‘鳩山邦夫大活躍’の裏話が暴露されている。
あの事件は、今から振り返るまでもなく、鳩山邦夫の言い分が支離滅裂だった。と、実際ほとんどのおとなは承知していたはずだが。
この国で何度も繰り返される、この種のバカげたバッシングは、いったいどこから湧き出てくるのだろうかと何度も考えてきた。上に池田信夫が指摘したような、偏狭な利他主義という考え方も、その波及していく先まで考えていくと、とても面白い。
それで、今まで考えてきたことを思い返してみると、こうしたバッシングの心理は、個人の特性としてよりも、集団の特性として考えざるえないのだと気がついた。つまり、こういう心理は、個人が没したところにしか出現しない。(今までずっと、こういうことを考えている‘誰か’を考察の対象に想定してきたが、ここに‘誰か’というべき個人はいない。だからそもそもこれは‘考え’ですらない)その意味で、2ちゃんねるの連中が使う‘祭り’という言葉は正鵠を射ている。
こうしたバッシングの心理は、個人としての感情、知性、論理を、集団の心理に明け渡しゆだねる時にだけ可能になる。もはやふつうに‘心’と呼んでいるものとはかけ離れている。
で、伊藤計劃の『虐殺器官』の話に戻るのだけれど、こうした集団バッシングの心理が、人間の遺伝子に埋め込まれているとしたら、人間同士が虐殺しあう、そういう心理を発動させるスイッチが、言語の操作によって、可能だとしたら、という設定が、かならずしも荒唐無稽とは感じられない、そういう時代性を確実に捉えている。
余談だけれど、この『虐殺器官』については、週刊文春に池田暁子が連載している「人生モグラたたき」で知った。それによると、先般、芥川賞を受賞した円城塔が、伊藤計劃の遺稿「屍者の帝国」を書き継いで完成させようとしているそうだ。