リドリー・スコットが、フジテレビ、YouTubeと組んで、Japan in a Dayという悪趣味な企画をやるそうだ。2012年の3月11日、日本人が何をしているか写真に撮ってupしろということだ。
相鉄の電車内で「大震災の起こった時刻に電車を停めて黙祷する」というアナウンスが流れた。
また何か始まったんだなという気分、それは、この国で生きてきた人なら誰しも既視感をおぼえるたぐいの、なにか、儀式めいたこと。もちろん、そうしたまやかし、といって悪いなら、おまじないみたいなことも、別に悪いことではないだろう。
私自身は、その時刻、ジャック&ベティで、タル・ベーラ監督の「ニーチェの馬」を観ていた。映画の最中にもすこし揺れた。
ニーチェが発狂した日、街角で鞭打たれている馬車馬に駆け寄り、その首を抱いて慟哭したと言われているそうだ。
「だが、その馬はどうなったのだろう?」
これは、映画の冒頭、ナレーションの問いかけである。
しかし、この映画が描いている馬と馭者親子の日常が、その19世紀末のものでないことはすぐに明らかになる。
特に、ジャガイモひとつだけの食事は、19世紀というより、今そのもののように私には思えた。食べることが、祈りと切り離されていることが、今ではきわめて自然で、もし、食事の前に祈っている誰かを見かけたら、奇異に感じるはずだ。そのことの是非を言っても始まらない。今、ニーチェが「神は死んだ」といったとしたら、振り向く人もいないだろう。
この映画に、わたしは自身の肖像を、それもジャコメッティの彫像のような、極限までそぎ落とされた肖像を見る。
土地を去ろうとしてできず、また所在なく窓辺に戻って、止まない風に目をやる娘を、窓の外からカメラが撮る。青ざめたというよりほとんど死人のような顔。それまで、窓の外を見つめる親子を建物の内側から撮ってきたカメラが、そこで始めて窓の外から撮る。観客は、まるで水面をのぞき込むように、スクリーンをはさんで、この娘と正対する。
公式サイトの「レヴュー&コメント」にある佐々木中のコメントがよい。
ニーチェは、みる者を退屈させまいとする作家は一流ではないと言った。この「一流」の映画はニーチェをわかりやすくしない。ニーチェに知見があるからといってわかりやすくなる映画でもない。・・・
後半部分は公式サイトで。
以下に、タル・ベーラ監督の記者会見が全文記載されています。