
- 作者: 吉田健一
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2011/01/08
- メディア: 文庫
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『東京の昔』は、六つしかない吉田健一の長編小説の第5作目。ちなみに、『絵空ごと』は2作目で、『金沢』は4作目だそうだ。
それがどうしたといわれそうだけれど、この小説を読み終えたあとには、そんな気持になる。ワインリストをしげしげと眺めている気分はこんなものかもしれない。ベートーベンの交響曲に9番まで番号をふっていった人は、もしかしたら、単に分類の気持ではなかったのかもしれない。なんか数えてみたくなったということなのかもしれない。何度か数えているうちに増えるのではないかと思って。
プロの書評家にとってはおそらくタブーかもしれないが、私はプロではないし、これは書評でもないので、あえて書いてしまうことにする。
すっごい面白い。
『金沢』が最高傑作かと思ってたけど、そう単純には言えなくなったな。
藤牧義夫の時にもすこし書いたけれど、昭和初期のころ、1920〜30年代という頃、ようやく東京に生まれ始めていた都市生活みたいなことを、こんな風に惜別の思いを込めて、しかも、ヨーロッパと正確に比較しながら、書ける人は吉田健一をおいてなかっただろう。
なにしろ、銀座の資生堂で横光利一とはじめてあったときに、資生堂のどこがいいんですかと聞かれて、「とても日本的で・・・」と答えたという、有名な逸話は、日本という国を俯瞰する目の高さが、他の作家たちとまったく違っていたことを示している。
・・・確かにまだ日本にこなれていない部分が多すぎた。これも川本さんの言葉通りに明治維新からその頃で六、七十年しかたっていなかった。
こなれていない部分というのはまだ言葉になっていない部分が多すぎた。その代わりを勤めさせられる言葉がすでに言葉の用をなさなくなったもので君には忠というようなことがその頃まで真面目に言われていたのを思い出す。その君には忠もけっこうだろうが君も忠もそれが指すはずのものを表すのに不充分であり、従って不正確であるときにそれを真面目な気持で使っていればそこに空白が、また嘘が生じる。
・・・明治維新という革命の域を超えた大変動が起きた時にこれを通して人がともかく目標を見失わずにいられたのは日本が精神の面では充足していてそれ以外の実用的なことではそうでないからそれを直ぐに外国から取り入れる必要があるという考えがあったためだった。ところがそう考えること自体が精神の面でも充足していなかったことを示していて、・・・
(略)
今から思えば昭和に入る頃からしばらく変動を通して営まれてきた生活が精神の面でも芽を吹き始めたのだったことがわかる。
(略)
しかし明治以来の一般的な考え方からすればそういうことがすべて無用のものでその考え方に表向きはまだ変化がなかったことに注意しなければならない。
こうした文明論が、小説の中にさらりとまぎれ込んでいる。
ああ、5作目か。もう一度数え直してみようかな。増えないかな。