イ・ブル、三井家の茶道具

knockeye2012-04-01

 これは日記だから、日曜日は日曜日のことを書かないと、あとでややこしいことになりそうだが、昨日途中で睡魔に負けてしまったので、まだ土曜日の続き。
 昨日も書いた通り、強風に足を払われながら、森美術館に行った。スカイデッキはさすがに営業していない。しかし、森アートギャラリーの‘ワンピース展’は大盛況。お足元のお悪いにもかかわらず、門前市をなすにぎわいを尻目に殺して、イ・ブルという韓国の女性アーティストの展覧会を観にいく。

 初期の頃の‘モンスター’などは、女性的な身体感覚の表現だとしか、わたしたち男性には伝わらないのだけれど、後年になるとどんどんよくなる。
 特に、2007年の<バンカー(M.バフチン)>、<朝の曲>、<天と地>には、突き抜けた寂しさのようなものを感じる。多分、建築のような、建築そのものでなくても、建築と見まがうようなという意味だけれど、そういうスケールの大きな作品にもチャレンジできる人なのではないかと思う。
 六本木ヒルズの最上階に展示された、大きな犬の作品は、その制作過程で試作されたさまざまなモデルも見ることができたのだが、これが多彩で楽しかった。この部分は、韓国民窯の虎や鳳凰に通じるものを感じた。
 森美術館は、MAMプロジェクトという、撮影可の小さな展示室を設けている。ここでは、今回、ホー・ツーニェンというシンガポールの人の映像作品<未知なる雲>が上映されていて、これも、まあまあ面白かった。<未知なる雲>という、キリスト教にも仏教にも通じるような宗教的なテーマに興味を抱くことがシンガポールらしいという気がする。
 そのあと、三井記念美術館へ。あそこは地下鉄から外に出ずに入れるので。「茶会への招待 − 三井家の茶道具」という展覧会。
 なんかだんだん目が肥えてきたというのか、奢ってきたというのか、小堀遠州が作らせた茶入‘銘十寸鏡(ますかがみ)’などは、ちょっと作為が見えるかなとか、何様のつもりかという生意気な感想が浮かんできて我ながら驚いた。その作為が、綺麗さびという小堀遠州の美学なんだろうと思うし、キライじゃないですけど。
 昔、滋賀県の水口というところに暮らしていたころ、大池寺というお寺が近くにあって、小堀遠州が作った大刈り込みの庭にちょいちょいお邪魔した。あの庭はちょっとした見ものなんです。
 大井戸、青井戸、「国宝 志野茶碗(しのちゃわん) 銘卯花墻(うのはながき)」などもあったけれど、わたしはやっぱり、「重要文化財 黒楽茶碗(くろらくちゃわん) 銘俊寛(しゅんかん) 長次郎(ちょうじろう)作」がいちばんしっくり来た。
 美術館のサイトの説明をそのまま引用すると、
「利休が薩摩の門人から求められ、送った長次郎の3碗のうち唯一送り返されなかったため、鬼界ヶ島に残された俊寛僧都に見立てて命銘したという・・・」
ことだそうだ。
 利休という人はしゃれている。
 「赤楽茶碗(あからくちゃわん) 銘鵺(ぬえ) 道入(どうにゅう)作」は、「粉引茶碗(こひきちゃわん) 三好粉引(みよしこひき) 」と比べると、たしかにわざとらしいと見えないこともない。
 本阿弥光悦の黒楽茶碗 雨雲 は、確かに叙情的だけれど、千利休のいう「わばしたるは悪し」のすれすれなのかもしれない。
 これは、柳宗悦の本を読んで以来ずっと気になっている。
 帰りは風で鉄道が乱れた。銀座線は溜池山王で止まってしまった。