『ル・コルビュジエの勇気のある住宅』

knockeye2012-05-02

ル・コルビュジエの勇気ある住宅 (とんぼの本)

ル・コルビュジエの勇気ある住宅 (とんぼの本)

 帰りの新幹線で『ル・コルビュジエの勇気のある住宅』という安藤忠雄の本を読んだ。
 マルセイユのユニテ・ダビタシオンが実現したのは、この本のいうように、フランスの文化行政の力も大きい。建築家としてル・コルビュジエが大きな存在であったとしても、それだけであれほどの規模のものが実現するわけもない。政治家に信念があったということだろう。
 先日、ユニテ・ダビタシオンについて書いた後、気になって検索してみたら、やはり、ピロティ構造は津波に強いようである。これは、ある意味では当然だが、問題はその代わり、地震に弱いのではないかというところ。阪神淡路大震災では、ピロティ構造の建物が多く崩壊したようだ。
 ただ、阪神淡路大震災が起こるまで、関西では地震に対する備えにむとんちゃくだったのも事実。関西に地震は起きないと思われていて、関東大震災の後、阪神に住まいを移した人も多くいたといわれている。耐震設計したピロティ構造という発想は、未来の選択肢としてありうるのではないか。福島の海辺に建つユニテ・ダビタシオンの幻想は、私の頭の中にしばらく消えそうにない。
 安藤忠雄は、現代の都市風景に最も影響をおよぼした建築家はミース・ファン・デル・ローエではないかと書いている。しかし、全面ガラス張りの超高層住宅のイメージが、すでに消費しつくされた感があるのに対して、ユニテ・ダビタシオンの理想は、いまだに見果てぬ夢として思いを誘う。
 全面ガラスの高層ビルが、外界を遮断してしまうのに対して、日光を調整するブリーズ・ソレイユや、積極的に風を取り込むヴォールト(かまぼこ天井)など、ル・コルビュジエの建築は、環境との親和性という意味で、21世紀の今でも、まだ未来に閉じられていないように思う。
 本の最後に、後世にル・コルビュジエが遺した影響として紹介されていた、アトリエ5のハーレン・ジードルンク(Halensiedlung)は、仮住まいとしてでなく、都市に住むことの根源的な問い直しとして、共同住宅の可能性を示していると思う。
 バブル時代の地価高騰で、「これでは一般人は家も持てない」ということから、急激な金融引き締め、それによる、バブル崩壊、それに続く泥沼の不況へと私たちは落ち込んでいったわけだが、そもそも「人は、必ず家を所有しなければならない」という前提がすでに妄執であったし、しかも、今もまだ日本人の妄執であり続けている。
 安普請の家を無計画に建てまくって町をごちゃごちゃにしてしまう方がいいのか、計画的に整備された町に借家住まいする方がいいのか。日本人は何故か、まよわず前者を選ぶ。すこし立ち止まってこうした持ち家信仰を疑ってみてもよい。
 だが、日本人に自分たちの町という意識が希薄であり、自分の住む町と自分、家族が暮らす街と自分の家族、という価値の対立が存在しないとすれば、そこにこそ公共が存在するわけだから、それはとりもなおさず日本人に公共心がないということである。
 そして、本来、政治はそこからしか生まれない。
 ところが、日本人が政治というと、公共という意識を飛び越えて一挙に国家にまで行ってしまう。しかし、国家は、概念にすぎない。つまり、‘天皇陛下万歳’は、実際の天皇陛下とは何の関係もない、国家も自我もそれを言う人の内側の妄想にすぎず、そこに他者が存在していないため、そこに公共心は永遠に存在しない。であるかぎり、日本に政治は永遠に生まれない。
 ル・コルビュジエの終の棲家となった、カプ・マルタンの休暇小屋は、わたしにはほとんど茶室にみえる。シャルロット・ペリアンの場合もそうだが、ル・コルビュジエの建築の前衛の部分は、どこか茶室の簡素さに通じるように感じて、そのことが、ル・コルビュジエが日本でうける理由であるのかも。
 茶の栄えた時代は、日本の美が洗練されていた時代でもあるが、また、美観が世界に開かれていた時代でもあったことは思ってみてもよいのではないか。私たちがきわめて日本的だと思う茶の美は、世界に背を向けず、その美学で世界を問い直す勇気があった。