熊谷守一展

knockeye2012-05-03

 伊丹市立美術館で熊谷守一展。今回の帰阪では、必ずこれを観ると決めていた。
 黒田清輝門下で、青木繁と同級生だったと知って驚嘆している。
 青木繁の<海の幸>をブリジストン美術館かどこかで観たことがあるが、そのときの正直な感想としては「これが?」という感じ。
 明治の人たちが、油絵という‘文明開化の画材’に夢中になっていたことはよく分かるが、そういう油絵中毒が抜けきった今の私たちから見ると、明治の人たちが捨てて顧みなかった江戸の絵師たちの方がはるかにすぐれているように見えます。
 なので、そういう黒田清輝青木繁と同時代の人だと思って熊谷守一の作品を見ると、まったく目を見はる。
 ‘熊谷守一’で検索すると、ずらっと出て来る画像の中に、何枚かマチスの絵がまぎれ込んでくるが、マチスの絵は線と色だと思う。対して、熊谷守一の絵はフォルムではないか。
 熊谷守一の言葉
「絵というものの私の考えはものの見方です。どう思えるかという事です。単純というのは表現の方法です。どういう風に見たって絵にならなければ、形になってきませんから・・・。私は写実だけれども幾らか違って、とにかくそれをぼやぼやしてやったのです。」(『心』1955)
 先日のジャクソン・ポロックの言葉と同じく、画家の言葉は絵とならべてみると味わいが増す。
 1956年に軽い脳卒中の発作を起こして以来、ほとんど外出せず庭の花や虫を眺め暮らすような生活だったそうだが、この時期の花や虫の絵にはまったく舌を巻く。ものの見方をどうやって形にするかというすごさ。
 たとえば展覧会のサイトにある<豆と蟻>

 私たちもまた、蟻や豆を見ているだろうが、おそらく熊谷守一ほど正確には見ていない。と、この絵を見てそう思いませんか。
 発作を起こす前年に描いた<西日>

 図録をカメラで撮った画像で恐縮だが、この波の表現、岩に打ち付けている波のフォルムのすごさ。光琳北斎もこの波は描けない。
 そして、印刷ではまったく再現できないだろう色の豊かさにも驚かされる。
 下の絵は1917年、ごく若いころに描いた<風>という絵だが、天才を感じさせると思うがどうだろう。このころは、ろうそくの光の効果を追求したり、月光の下で写生をしたりしていたそうである。

 父親は岐阜市の初代市長で大規模な工場を運営していたそうだが、子どものころは実の両親から離れて、妾さんの許で育てられた。事情は分からないが、画家としての熊谷守一は貧乏だったようだ。糊口をしのぐために樺太調査団に参加している。そのときの記録は関東大震災ですべて焼失。
 1972年に文化庁から勲三等叙勲の内示を受けたが、
「お国のためには何もしていないから」
といって辞退している。