金環食は、「どうせ雨なんだろ」と思っていたし、案の定、傘を差しての出勤で苦笑していたが、職場について、ちょっと朝のコーヒーを飲みに戸外に出ると、雲間にちょうど金環食になった太陽が見えた。いいのか悪いのか知らないけど、雲のおかげで肉眼で見られた。「まあ、ラッキーなんじゃねえの」みたいな。寒いのにも驚いたけど、それは金環食とは関係ないのかもな。
写真は撮りませんでした。誰か撮るだろうと思って。いま、はてなフォトライフを検索してみたら、まだこのひとしかアップしていなかった。
もしかしてみんなそうなのかな。まあ、出勤時間帯だからね。月曜日だし、ブルー・マンデーってことかな。
日曜日の続き。
上野で、ボストン美術館展とともに心待ちにしていたのは、東京芸大の美術館(正確には‘東京藝術大学大学美術館’だけど、‘大学大学’って・・・)でやっている高橋由一展。
もし、ボストン美術館展の行列におそれをなした方には、こちらをオススメしたいですね。
花は桜木、人は武士。高橋由一は武士なんだなと、それを初めて知って感慨深い。
日本の絵画は、‘日本画’と‘西洋画’に分かれている。‘西洋画’を代表する黒田清輝や青木繁は、ひいきめにいっても‘泰西名画’の猿まねにすぎず、とにかく全部まねすることにしちゃったので、ダウンタウンの言葉を借りると‘ナニジンやねん’というような絵が量産されるわけだが、すでにものを見る目が自立性を失ってしまっているので、描いている本人はそれでもオリジナルのつもりなわけ。
一方の‘日本画’を代表するのは岡倉天心や横山大観だが、岡倉天心はそもそも絵を描いてすらいないし、‘日本画’という発想自体が、‘西洋画’への、多分に概念優先の反発であることがまるわかり、一言でいえば、ようするにコンプレックスで、‘西洋人にバカにされたくない’というのが彼らの願望のすべてなので、曾我蕭白とか浮世絵とか、西洋人にバカにされそうな気がして、隠しちゃったわけで、内心、‘西洋画’の連中と血肉を分けあっているのがよくわかる。それで、涙目になって富士山ばっかり描いている。横山大観に<無我>という絵があるが、あれはむしろ<自意識>というタイトルにすべきなのだ。
そういうぐだぐだをひくるめて鼻で笑う資格が、高橋由一には、たしかにある。
高橋由一にとっては、西洋だの日本だのは多分どうでもよかったろうことは、たとえば、こういう絵に表れている。
<花魁>
吉原の小稲という花魁を描いたものだそうだが、いい女だ。ただ、小稲本人は、自分はこんな顔ではないと泣いて怒ったというから面白い。いい女をいい女に描いて怒られている。人はものを見るとき目で見るよりもはるかにイメージで見る。おそらく当時の女性たちは、鏡の中に歌麿の美人画を見ていたはずである。そんな時代に、この絵を描けた高橋由一の目に驚嘆すべきなのである。
この制作年が明治五年(1872)。その後、日本の絵描きが花魁を油絵で描けるようになるまでには、なかなか紆余曲折がある。
下の絵は、稲垣仲静の<太夫>。これもいい女だが、制作年は1919年、すでに大正8年である。
このあとに、甲斐庄楠音の諸作や、速水御舟の<京の舞妓>が続くわけだが、かならずしも画壇に好意的に受け入れられたわけではない。
だが、いまの目で見るとき、甲斐庄楠音を激しく罵倒した土田麦僊とどちらがどうかという話。
岸田劉生がいわゆる‘でろり’の肖像画をはじめたころ、「日本の洋画が退行した」と評されたというが、その批評子はいったい何を発展だと考えていたのだろう。
<豆腐>
長谷川燐二郎の展覧会を観ていたとき、ふいに高橋由一のことが頭に浮かんだ。それはこの豆腐だったかもしれないし、干し魚の方だったかもしれない。