バルビエ×ラブルール、北斎

knockeye2012-05-31

 にもかかわらず、まだ書き漏らしている展覧会について。
 鹿島茂コレクション2「バルビエ×ラブルール」を練馬区立美術館に訪ねたのは、4月21日のこと。
 でも、これについてつい書きそびれたのは、その前に鹿島茂自身のディアギレフについての文章を紹介したことでもあるし、その翌日に観にいったジャクソン・ポロック展にいたく感銘してしまったこともあるが、しかし本音を言うと、この展覧会の図録でもある『バルビエ×ラブルール』という本(帯に「二度と見ることのできないものを愛せ!」と記されている)に溢れている、鹿島茂の‘バルビエ熱’に当てられたのが一番大きいかも。

 ジョルジュ・バルビエの絵画があまり一般的でないのは、鹿島茂エルトン・ジョンなどの個人コレクターが、愛蔵のあまり秘匿しているためでもあるらしい。
 日本の浮世絵と同じように、絵師だけでなく、彫り師、刷り師がその存在を支えていた、ポショワールの色は鮮やかで繊細。こういう技法が失われたのだとしたら残念だと思う。ただ、バルビエの最高傑作と紹介されている「ビリチスの歌」はF=L・シュミットという浮世絵の研究家が独自に開発した木版画によっているそうだ。
 ディアギレフ率いるロシアバレエの躍動感を、写真よりもバルビエのイラストの方がよく伝えているというのは、まったくその通りだろう。当時の写真技術では、バレエのような激しい動きを捉えることは出来なかったと思う。
 バルビエの、エロティックな線で切り取られ、繊細な色に塗り込められた面で表現される、塊としての重さを持たない肉体を見ていると、「モダンの誕生」とは、イメージとしての肉体の覚醒かと思えてくる。
 ルネッサンスが肉体を解放したと言っても、それは精神に対立する概念としての肉体にすぎなかった。ボッティチェリのヴィーナスとバルビエバッカスの巫女との間には、対象を容赦なく描写する写真と、男女の肉体をイメージの極限として抽出する浮世絵と、そして、鍛錬された肉体を表現の道具として駆使するロシアバレエがあったわけだった。
 それは、全体性という抑圧からの解放であると同時に、部分へ分裂して向かう、フェチズムの呪縛の始まりであったのかもしれない。つまり、‘手ブラ’だったり、‘くびれ’だったり、下唇をかんだり、アヒル口だったり、髪をかき上げるとか、白いビキニとか、そういう様々なこと。
 ところで、男が現実には、必ずしも巨乳が好きであるわけでもないのに、なぜ、グラビアは巨乳ばかりなのかと言うと、事の起こりはグラビアの歴史を遡り、ピンナップの時代に始まるようだ。
 そもそもピンナップは、第一次大戦の兵士たちが戦場の慰めにしたイラストだった。つまり女の絵で、女を絵に描こうとすると、寸胴で、胸がぺたんこで、髪が七三で、唇が薄いということにはならない。時代が下がってピンナップが写真となるとき、ピンナップガールの絵‘のような’モデルが採用されるのは自然の成り行きだった。イメージの刷り込みの問題で、自分の場合を考えても、グラビアに反応する回路と実地の恋愛の回路とは別のようである。
 ジャン=エミール・ラブルールの、モノトーンの版画は、バルビエのなめらかな曲線と極彩色とは対称的に見えるが、質感や量感を表現しようとしていないという点で、やはりそれは、描写された肉体ではなく、表現されたイメージとしての肉体であるという共通点があるとおもう。個人的にはラブルールの女たちの方がセクシーに感じる。
 三井記念美術館でホノルル美術館所蔵の北斎を見た。
 北斎は、春画をまとめて見てみないと一面的だなと思っている。しかし、今回の展覧会では富嶽三十六景の<甲州石班沢>の、あれは‘紅嫌い’というのか、青一色の刷りが鮮烈だった。