「原発再稼働問題と生活保護 〜迷走の原因を考える」

knockeye2012-06-01

原発再稼働問題と生活保護 〜迷走の原因を考える」と題して、大前研一がブログに書いている。

 およそ1ヶ月の間、無政府状態にあったという事実が、今の日本という国を知る上で極めて重要だと思います。

今の日本という国を知る上で重要なのは、無政府状態であることの恐ろしさを自覚することだろう。
 官僚組織というものが、たとえどれほど優秀であったとしても、去年のような未曾有の危機を前に、それだけでは何の役にも立たないことをまざまざと見たはずで、ましてや官僚が優秀でない場合はいうに及ばない。
 しかし、そのようなことはとうの昔に解りきったことで、だからこそ、国民は政治主導を求めて、政権を民主党にあずけたはずだった。
 国民が選挙で選んだ代表が政治を支配しなければならず、そのためには、政党は選挙で公約したことは守らなければならないし、守れないような公約を選挙に掲げてはならない。
 民主党が選挙で掲げた公約は守れないようなものだったか。私はそうは思わない。公約を守っていれば今のような迷走には陥らなかったはずだ。鳩山由紀夫菅直人も、そして小沢一郎も、選挙に大勝したとたんにびびって官僚にすり寄った。それは、それまで彼等にとっての政治が政局といわれる権謀術数にすぎず、政策に昇華させるどのような政治哲学も持ち合わせてなかったからだろう。
 菅直人を悪役に仕立て上げるメカニズムは、鳩山邦夫を正義の味方に祭り上げるメカニズムとまったく同じ。それは、問題を擬人化し、特定の個人を攻撃(鳩山邦夫がもちあげられたのは、西川善文へ容赦ない個人攻撃をしたからにすぎなかった。いじめっ子のグループがリーダーに追従するのとまったく同じ現象)することで、背景にある構造から目をそらしている。まるで、人身御供を沈めれば津波の神の怒りがおさまるとでも思っている未開の民のようだ。
 河本準一の母親が生活保護を受けていた問題をめぐって気付くことは、この国が、無政府状態であるとともに、いわば‘無報道状態’とでも言うべき、お粗末なジャーナリズムしか持っていないということ。‘輿論’についての吉田健一の批判は、そのまま21世紀の今にも通用する。
 そもそも体を悪くして働けないのなら、息子がお金持ちであろうがなかろうが、生活保護を受けていて何の問題があるのかわからないが、それに異論があるとしても、すくなくとも法的に問題がないなら、河本準一個人を、こづきまわしたりひきずりまわしたりすることがジャーナリズムの仕事ではない。
 しかし、この国のジャーナリズムがそれ以外の仕事をしているのを見たことがない。
 先日、「男のブラジャー」について書いたが、‘輿論’とはまさに「男のブラジャー」だ。それはマスコミのでっち上げにすぎないが、そのでっち上げにもっとも過敏に反応するのもまたマスコミで、はたで見ていて滑稽なほどだ。
 三宅久之がどこかの週刊誌に、ドラマ「運命の人」の感想を述べていた。
「西山を美化しすぎている」
「女性関係が発覚してがらりと輿論が変わった」
しかしすでに真実が手中にあるとき、それと‘輿論’を秤にかけるべきだろうか?
 ジャーナリストが‘輿論’を口実に使っているかぎり、公正な報道などされるはずもない。