丸谷才一が「宗教的な告白」といっている背後には「confession」という意味合いがあるのだろうと思う。「告解」とか「懺悔」とも訳される。
私小説はたしかに、本来、告解室ではじめて口にできるようなことを、印刷して配るみたいな露悪的なばかばかしさをはらんでいる。そういう道化ぶりに、滑稽味のセンスがないと、読んでられないということはある。こう書きながら、思い浮かべているのは西村賢太とか、太宰治、近松秋江とかなのだけれど、それでも、すこしずつ私小説家の範囲を広げていくと、好きな作家が入ってくるようで困るわけ。
パパラッチみたいに単に他人の私生活に対する覗き趣味を満たすみたいなことはつまらないに決まっているけれど、‘私’を突き放してみることができていれば、そこに‘公’が描かれるはずだし、‘自己’を描こうとすれば、そこに、‘他者’を描かずにはすまないはずで、そうであれば、そこに‘社会’や‘世界’が描かれていくことになるのではないかと思う。
私は別に、‘私小説是か非か’みたいなことをいいたいのではないし、須賀敦子のエッセーを私小説に分類したいわけでもない。私たちが‘宗教’とか‘文学’とか‘神’とかいう言葉を口にするとき、平気で飛び越えていってしまう(あるいは、飛び越えたつもりになっている)深い断層みたいなところにほんとうは真実があって、それを飛び越えずに宗教と文学を見つめていると須賀敦子の文章のようになるのではないかと思えるということを、ちょっと言ってみたいだけ。