- 作者: 小澤征爾,村上春樹
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2011/11/30
- メディア: 単行本
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「音楽好きの友人はたくさん居るけれど、春樹さんはまあ云ってみれば正気の範囲をはるかに超えている。」
と、あとがきに書いているほどだ。
ときどき書いているように、音楽に対するテイストがない自覚があるのに、というか、あるからこそというか、音楽に関する本を読んだり、音楽をテーマにした映画を見たりするのが好きで、しかも、とても楽しい。青柳いづみこのピアニストについての本とか、坂本龍一と吉本隆明の対談とか、『レノン・リメンバーズ』というジョン・レノンのインタビューもこのブログで紹介したかもしれない。
ちんぷんかんぷんなんだけど、自分がちんぷんかんぷんなことでも、そこにロジックがあって、そのロジックが実践に移されて、そこから実体としての音楽が生まれて、といった知的営みがあって、そこに、カラヤンやレナード・バーンスタインやグレン・グールドといった個性が絡み合ってくる、そのことがとても面白い。一方できわめて普遍的な知の領域であるのに、一方で圧倒的に個性的な世界が展開する。それが楽しくなかったら、そもそも人として何が楽しいのかわからない。
しかし、そうしたひそかな楽しみは脇においても、この本のマーラーをめぐる対談はやはりすごい。話が深いところになるにつれ、噛み合わなくなって調子がはずれてくるのだが、それは、小澤征爾が音楽を言葉で語っているのは、村上春樹が言葉で尋ねるからにすぎなくて、小澤征爾がスコアを読むとき、言葉としてでなく音楽として読んでいるからだという、言われてみれば当たり前のことに今さらながら気付いてハッとさせられる。
結局、村上春樹のように「正気の範囲をはるかに超えている」音楽好きであっても、音楽を読んではいない。
いつもは、読者が村上春樹の作った世界を受け取っているのだが、この本に関しては、村上春樹が受け手にまわっているのがすごく面白いと思った。この本に語られている言葉はすべて二次情報にすぎなくて、一次情報はすべて、この本に不在の音楽にしかない。そういう風に音楽が言葉で語られる。しかし、それが音楽を言葉で語る最高のやりかたなんだろう。
ガンの手術の後、村上春樹の家で家族ぐるみの食事をしたあと、別室で、グレン・グールドと内田光子のレコードを聴いていたら、半世紀前のグレンの想い出がどんどん出て来たと小澤征爾は書いている。
今までは毎日の音楽でいそがしくて、考えもしなかったのに、出てくるわ、出てくるわ。なつかしかった。今までの私にはない経験だ。大手術も悪いことばかりではない。春樹さんのおかげで、カラヤン先生のこと、レニーのこと、カーネギー・ホールでのこと、マンハッタン・センター(今はどうなっているのだろう)でのこと、ずるずると想い出が出てきた。その後、春樹さんのおかげで、三、四日は想い出づけになった。
言葉が詩であるとしても、言葉はまた別の歌を紡ぐだけ。
村上春樹はこう書いている。
「そういえば、俺これまで、こういう話をきちんとしたことなかったねえ」というマエストロの感想は、僕にとっては何よりの報酬となっている。